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サイードの映画とテレビ版「のだめ」

【あらまし】 サイードのドキュメンタリー映画ということになっている佐藤真監督の「Out of Place」を観て思ったことなどアレコレ。バレンボイムがオーケストラで色々な楽器が一つの曲を演奏することとパレスチナにおける共生問題を結びつけて語ったことへの異議申し立て等々。またこの点に関連してテレビ版「のだめカンタービレ」で「音楽によって(のみ)結びついている人達」という要素がゴッソリ抜け落ちている理由を推察してみたり。
【キーワード】 [サイード][バレンボイム][のだめ][佐藤真]


Out of Place

いや、騙された(笑)。まさかあんだけサイードを全面に出して宣伝(?)しているドキュメンタリー映画にサイード本人が全く出て来ないとは思わんかったですよ。サイードが亡くなってから撮られた映画だったんですな。もう観る前からガックシ。

で、大部分はパレスチナ人とイスラエル人だとか、あのアタリに住んでいる一般の人達にアレコレ生活のことを聴いたりする映像だったですよ。あとはサイードの奥さんとかのシャベクリがあったりサイードと親交のあった人達がシャベクったり。

色々と思うところはあるのですが、まあ、大部分はさておいて、バレンボイムが言ってたこと関連ネタについてちょっと語ってみますね。オイラ、どうしても疑問に思うのですよ。ああいう考え方というか意見について。

そんでどういう意見だったかというとですな、ボヤヤンとした記憶を頼りに引用すると「オーケストラには色々な楽器があるけれども、それらが一つになって協調して曲をつくりあげている。民族問題などというものも、このようにして協調を通じて解決できるはず」みたいな感じじゃなかったかな、と。引用とかいっててボケボケなのでアレですが。

たぶんバレンボイムがこういう話をくっちゃべってたのは、サイードとバレンボイムでベートヴェンか何かを演奏するアラブ人&イスラエル人の若者混成オケ活動みたいなのをやってたという経験を背景にしての感想みたいな感じだと思うのですよ。この試み自体には全然文句はないんだけど、でもバレンボイムが言っていることはオカシイとしか思えんのですよ。あまりに多くのことを見ないフリをしているのか本当に見えてないのか、なんなのかわからんですけど。

パレスチナ系アメリカ人のサイードとロシア系イスラエル人のバレンボイムが協調しているわけですけど、この二人の接点というか共通の土台はフツー「音楽」だと言われてますわな。サイードもバレンボイムもピアノ弾きなわけで。で、上記プロジェクトで結成されたオケに集まったメンツも民族とか国家とかそういう枠ではなく「音楽」を通して協調している人々に見えますわな。

でもそうじゃないんだな。いや、そうなんだけど、全員所謂クラシック音楽やオーケストラ演奏を行なうような文化に属していて、そんでもって知識も教養もあるそういう人々なわけじゃないですか。ああいう「音楽」に参加できるためにはそもそもそれに参加できるような素養がなければいけないわけで、要するに「立派な人間同士だと相手の才能を認めて仲良くやれるね」ってことなだけじゃないかと。

民族とか国家とかじゃなくて音楽を共有する音楽家としての...とかいうとさ、これって「立て万国の労働者!」みたいなのの焼き直しじゃんかさ、と言いたくなる。結局割れるんじゃんかさ。パレスチナ人とイスラエル人という対立が、夢見がちで協調的な音楽家たちとそういう理想(?)を共有できないボンクラどもとの対立ってことになるだけでさ。やっぱし永遠にパレスチナ問題は解決しないんじゃね?と思った。

それにオーケストラってさ、各楽器演奏者同士や指揮者との関係なんかも全然フラットじゃないよね?協奏曲ってのもあるからアレだけど、基本的に主役を担当する楽器と脇を担当する楽器って定まっちゃってる感じだし。はっきりヒエラルキーがあるよね。コンサートマスターってバイオリンからしか選ばれないんでしょ?そんでもって伝統あるオーケストラとかだとバイオリン軍団が指揮者無視したりするらしいじゃんか(←伝聞情報:笑)。オレらが偉いんですけど何か?みたいな感じで。

ま、でもそんな特殊なケースを除けばフツー楽器演奏者はみんな指揮者の言う通りにやらなきゃいけないわけだよね。誰か絶対的な指導者がいて、それに従うことで異なった音色のものたちが協調する...ってさ、そういうオーケストラみたいな社会が理想だって言ってんのかね。本気で。だとしたらバレンボイムってバリバリの帝国主義者にしか思えないんだけど(笑)。だからワグナーとか好きなのか?知らんけども。

そんでサイード自身はこのあたりのネタについて何か言ってんのかっていうと、この映画でも二三回引用されてて、最後にも引用されていたサイードのコトバってのがあるんですよ。こちらはたぶん正確な引用だと思いますが。


民族や国籍によって人々を引き離しても、彼らを対立させている問題は何ひとつ解決しない。他者を知ろうともしないことも、もちろん有害無益だ。音楽を演奏する喜びを分かち合うときのような、協調と共存を通してならば、少しは期待がもてるかもしれない。暗雲が垂れ込め、現在の状況は絶望的に見えるが、わたし個人はあくまでも楽観的である

あー、何からの引用かは知らんです(←!)。「音楽を演奏する喜びを分かち合うときのような、協調と共存」ってのは個人(の演奏者とか)に関しては全然問題がない表現だけれども、これを国際社会というか多民族間の「協調と共存」みたいな話にすると俄然ヤヤコシクなると思うんですよね。

一つの共通するゴールに向かって全員が指導者のもと一致団結して何かを作り上げていく喜び、っていうのはスゲエ危ない気がしてならないわけですよ。いや、そういう部分に焦点をあてての話ではないんでしょうけどね。他者の存在に気づけ!とか相手の言っていることを聴け!とかそういうことなんだろうけどさ。

なんつーのか、で、サイードが提唱していたパレスチナ問題の解決案というのは「一つの国に二つの民族が共生」ってものらしいのですよ。オスロ合意っていうのに彼は不満で、なんで不満かっていうとそれは土地を分けてそれぞれでそれぞれが暮らすというものだったかららしいのですな。

ガザ地区とかなんとかいうところのイスラエル人入植者を撤退させて、そことかをパレスチナ人居住区にしてパレスチナはパレスチナで独立するってハナシなのかと私は理解しているんだけど間違ってるかもしらん。このへんのハナシって全然知らんから。

そんでもって、結局これは上手くいってないんだよね。イスラエルが軍を撤退させて入植者を引き上げて停戦合意してもすぐに破られて、今度はイスラエルがマジ切れして報復...っていうのの繰り返し。

ま、なんですか、昔だれかがパレスチナ問題を日本で喩えると...とかいって「突然異民族が『ここはオレたちの国だから出て行け』とかいって侵入してきて、『それはあんまりだ!』って抵抗したら『じゃあ譲歩してやるからこっからは出てくんなよ!』っていって四国に全日本人が押し込められた状態」って書いているのを見たことがあるんだけど、確かにヒドスギではあるよな。

だから境を設けずに混ざり合って協調しつつ共生すべき...って言ってるんだろうけど、それもムリだよな、常識的に考えて。支配階層のイスラエル人と非支配階層のパレスチナ人という構図には絶対になるし、それは動かしようがないものだろうし、そうなると結局パレスチナ人の不満は解消されないし、軋轢や摩擦は消えないだろうし。ヨーロッパ文化の受容度で測られる意味での文化水準を上げるというのはパレスチナ人固有の文化を捨てるってことと同義なんだろうし、サイード程度に適応したって、結局それはパレスチナ人の消滅ということと同義じゃね?と思えてならないんだけど、むしろそうなるべきって言いたいのかね。

それもどーだかな。

あとイスラエルには今現在でもキリスト教徒(たぶんオルソドクス)のパレスチナ人は居住していて、彼らの街というのもいくつかあるらしい。そんで、それに対してイスラエル政府は隣接する街をつくってイスラエル人を移住させて、両方の街を合併してから徐々にパレスチナ人の街の名前を消して行くような政策をしているのだそうな。

そんで映画では撮影スタッフとその街のパレスチナ人青年との間で議論になったりしてたんですけどね。なんでもイスラエル政府がヘブライ語で書いた書類があって、新しい街を作る目的を「根絶」であると書いてあるとか。で、撮影スタッフ(のたぶんユダヤ人?)が「あなたが言っていることはわかるし、その語には確かに『根絶』という意味もあるけどその文書での意味は単なる『移住』ってことだ」といって口論になってた様子が映っていたわけですよ。

そんでもってオイラは彼らが使っている言語が全くわからんので字幕に頼るしかないわけなんですけど、その字幕の内容がまた良くわからん感じでした。パレスチナ人の青年は「相手の立場にたって考えろ」とかなんとか言っていることになってたけど、それだとハナシが噛み合ないし。

っつーかですね、日本人スタッフの女性もそこに映っていて、パレスチナ青年がしゃべっている間「パンク?」と思うほどクビを縦に振ってて、ハナシが途切れた瞬間に「はいはい議論はおしまい撮影撮影!」って言ってですね、オイラは結構「ムカッ!」ときたんですけどね。なんつか、そういうヒトっているよね。でもそこはちゃんと議論すべきポイントじゃね?と思った。

えーと、オイラなりに考えるとさ、ヘブライ語のナントカっていう単語をたとえ文書の文脈で「移住」って意味で使っていたとしても、その語にはもともと「根絶する」とかそういう意味はあるわけでしょ。語の成り立ちって色々あるから簡単には言えないけど(たまたま別の全く関係ない起源を持つ語の発音が似ていたせいで一つの語になってしまったとか云々)フツーはヘブライ語の意味構造の中では「移住する」っていう概念と「(相手を)根絶する」っていう概念が非常に近いってことですわな。

つまりヘブライ語では「移住する」っていうのは移住先の先住民の土地を奪って相手の文化を破壊して乗っ取って「根絶する」っていうことなわけですよ。今でもそうなのかは知らんですけど。だからパレスチナ青年の読みは誤読じゃないんだよね。撮影スタッフのヒトは他者を知る前に自分を知れば良かったのに、とか思った。そして議論を続ければ気づいたんじゃね?みたいな。

ちなみに日本語というか日本文化の特徴として「共生symbiosis」を生物学的共生関係という文脈を越えて広い範囲に使うという指摘なんかを見たことがあったな。上野晴樹先生あたりの文章で。たとえば「symbiosis with nature」というのは日本人には馴染みのある概念(「自然との共生」)だけれども、そういう用例はホトンド存在しないとか。「環境保護」というと日本人はすぐに「自然との共生」と考えるけれども、フツーは「protection of nature」ということだそうな。「共生」は「寄生parasitism」との差異を述べるときに出てくる概念にすぎんというわけでやんすね。利益が一方的か双方向かって感じで。

っつーか、パレスチナ問題とかを解決するには彼らはまず「共生」っつー概念そのものについて色々考えた方がいいんじゃね?とか思った。全然わかってないでしょ?みたいな感じで。

テレビ版「のだめ」演出

そんで微妙にハナシは戻るのですが、サイードのいう「音楽を演奏する喜びを分かち合うときのような、協調と共存」って漫画版の「のだめカンタービレ」ではすごく良く描かれていたようにオイラは思ってるんですよ。

海外に行けないカラダのために指揮者としての将来を絶望しかかってた千秋くんと「のだめ」や峰や真澄ちゃんが仲良く(?)なったりしたのも全部音楽を通じてだったしな。千秋くんが作曲したものの「どうせ日の目をみることもないんだ」とイジケてた曲をちゃんと三人でジャズ用にアレンジして演奏してあげようとしていて、それに千秋が参加する...みたいな感じで打ち解けていったエピソードとかあったしね。あれは良いハナシだったな。

それに登場してくる人々がなんつーのか、みんな真性の音楽バカで変人だったり性格が合わなかったりしても結局は音楽を通じて認め合っていくハナシになってるので、ものすごく読後感が良いのですな。

ただ、テレビ版ではそういうエピソードはほとんど省かれてしまっていて、彼らが音楽好きというか音楽バカであることを示すような演出が全然ないのがちょっとアレなわけですよ。

なんでだろー?と考えてみてまず一つはそういうシーンを撮るのが大変だからってのが思いつきます。

たとえば「のだめ」とハリセンが打ち解けて行くエピソードっていうのは、原作の漫画では「もじゃもじゃ組曲」の第12曲目を共同制作しながらなわけですよ。「ここは借用和音で」とかハリセンも心から協力しているし、単なるバカ曲じゃなくてクオリティの高い曲であることを知って感心しているわけですな。ところがテレビ版ではそれが「おなら体操」になっちゃってるわけですよ。

変だけど良い曲である「もじゃもじゃ組曲」を実際に作成するよりは「おなら体操」にした方が労力はかからんですからな。それは仕方がないかな、と。

あとオカマの打楽器奏者である真澄ちゃん役のヒトがどうも超絶楽器が苦手なようで、そういうシーンで使えないっていうのもあるのかもなー、とも思ったり。原作での真澄ちゃんは演奏が凄いヒトでしかも努力家という面が結構見えててよかったんですけどね。テレビ版だとただの変なヒトになっちゃってるし。

ただ、そういうどうしようもない事情だけじゃなくて、なんか「音楽を通じて」っていうのが希薄になってる理由もあるんじゃないのかなとも思うのですよ。

それで顕著なのが第5話での千秋君のラフマニノフ演奏に「のだめ」が遅れてくるアタリの描写ですかね。もう曲が始まっているのに会場にいないというヤツ。これはオイラも観てて有り得ないと思いましたわ。月9ドラマの演出文法的というか絵的には曲がBGMとして流れつつ、演奏している千秋君のカットが入りつつマングースの着ぐるみを着た「のだめ」が廊下を走る...っていうほうが良いって判断だったのかな、ってとこですが。

あとオチャラケのSオケを通じてオーケストラの面白さを再認識した千秋君が日本にいながら今自分にできる最高のものを...といって結成&運営した若手エリート演奏者集団であるR☆Sオケにテレビ版ではSオケメンバーを入れてラストの最終公演に登場させるとかそういう段取りになっているという噂でやんすな。今までの展開をみると「アルアルw w w 」って感じで悲しいですけど。

なんでそーなっちゃうんですかねえ...と考えて思いつくのはアレですよ、ドラマ制作側の考えとして「視聴者の大多数は『音楽を通じて』云々なんてものは別に観たくナイデショープゲラ」ってのがあるんじゃないかと。

原作での千秋君は音楽バカなので音楽のクォリティをいかにして上げるか、ってところで全く妥協がない、そして妥協がなさすぎるので孤立したり失敗したりするヒトに描かれてるってこともあって、R☆Sオケでも最高のパフォーマンスをしようとするわけですな。そんでもってSオケには感謝しているけどその延長ではやりたくないっていうわけですよ。人情とかそういうのよりは音楽的に優れているかどうかを常に優先するわけで。だからこその清々しい音楽バカなわけで。

でもそれは案外テレビドラマ、それも月9視聴者層なんかには受け入れられないんじゃないか、っていう判断があるんじゃないかと。戦後民主主義的なアレといいますか。

っつーわけで、「音楽を通じて」云々っていうのが通用しない大量の人々が生息するこの地球でサイード的な希望はやっぱし通用しないんじゃないのかなーとか思う。ゼツボーするしかねえ、みたいな。

ちなみにテレビ版で主役級の三人(千秋、のだめ、峰)を演じている役者さんたちなんですけど、音楽バカ的演出があんまり無くて、しかも原作とかなり違う雰囲気のキャラになっているのに、どーみてもハマリ役になっているわけですが、それは彼らが実際に地の部分で真性役者バカで、それがこうにじみ出ていて、その部分が音楽バカ風味を補完しているんじゃないかと思ったり思わなかったり。いや、思うんだけどさ(笑)。特に「峰」は原作の峰より魅力的な(かわいらしい?)キャラになってる気がするし。

あー、とにかくそんな感じ。

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