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珍説を唱える気持ちを知りたい

【あらまし】 池上嘉彦先生がネット上に公開している文章「日本語は<悪魔の言語>か?---個別言語の類型論の可能性」に関してアルファブロガーfinalvent氏が奇妙な言及をしているのを発見。少なくとも私の知見では批判されるべき点もないようにみえる池上先生の文章に対してfinalvent氏は痛烈な(?)批判を試みているようなのだが、それは批判対象に書かれていることを全く理解しないままの筋違いな批判としか思えない。また批判として妥当ではない以上に、そもそもそこで述べられている「日本語は(起源が不明な)語彙を朝鮮語の文法で整えて出来た人造語」などの説は一顧だにする価値のない珍説ではなかろうか。これらの問題について考察する。
【キーワード】 [池上嘉彦][finalvent][日本語]

finalvent氏が「はてな」でやっているブログの該当記事↓。

ぶくまより 日本語は<悪魔の言語>か?ってか。

一応キャプ画像も貼っておきます。本文とコメントの該当部分。

final01.jpg

final02.jpg

さて、どうなんでしょうね。普通に(インチキではない)言語学を学んだことのあるヒトだったらヒキツケ起こすんじゃないかな、コレ。こんなのを読んだら。

で、この仮説というか珍説なんですけど、これだけ単独でヨタ話として書いているのだったらまだ私も看過する気にもなったのですが、池上嘉彦先生の文章への批判(?)として書いているらしい点でちょっと許せないなと思ってしまいました。

finalvent氏のエントリにもリンクは貼ってあるのですが、リンク先は結構読み難いのですよ。一応URLを書いておきますと、こんな感じ↓です。

http://www.kclc.or.jp/humboldt/ikegamij.htm

ええと、ホントは...というかどう考えても絶対マズイのですけど、どうにも読み難いのでこちらで勝手にPDF化してしまいました。TeXを使ってですけど。池上先生の許諾はいただいておりません(汗)。ですので、苦情がくればソッコーで消します。

「ikegami.pdf」をダウンロード


さて、どこから手をつければ良いのやら。まず簡単に池上先生の文章に何が書いてあったかマトメてみますか。

(1) 言語間の異動については「相対性」を強調する立場(フンボルトなど)と「普遍性」を強調する立場(生成文法など)があった。「日本語=悪魔の言語」説などは前者に依拠している。
(2) 極端な「相対性」や「普遍性」という立場ではなく、「認知言語学」の立場から「類型論」的に言語を捉えることが可能なのではないか。つまり「可能な人間言語」の枠があって、その範囲内で個別言語の多様性が表れていると考えるのである。そしてその多様性については「類型論」によって分類することが可能ではなかろうか。
(3) しかしそもそもある言語の特徴を規定すること自体が可能なのかどうかという問題がある。また過去に行き過ぎた言語類型論があったことの反省からか認知言語学ではどちらかというと「可能な人間言語」の姿を明らかにする目的に積極的に取り組んでいる。
(4) 認知言語学的言語類型論では言語の構造や機能だけではなく、それが実際にどのように用いられるのかというパフォーマンスレベルの事項も考慮しつつ(というよりも寧ろそれに注目して)それらの背後にある動機づけ原理を探ることを行う。
(5) 日本語と英語の比較例提示。「うなぎ文」「<無界>と<有界>」など。

・・・って感じですかね。上手くまとまってないですけど。

で、これに対するfinalvent氏の批判はこんな感じで始まってます。


池上嘉彦先生も著名なんですがね。
ま、この話は、まじめくさった馬鹿話ですよ、ご注意あれ。

はぁ?...確かに「著名」ですけど「著名なんですがね」と書いているということは何か含みがあるってことですよね。

ええと、そういえばfinalvent氏のエントリには「ぶくまより」って書いてあったな。「ぶくま」とやらに何か「池上って誰?」みたいなコメントが並んでいて「オイオイ!著名なセンセだよ!」って言っている可能性もないわけではない。ちょっくら調べてみますか。

はてなブックマークを見てみたら16名だけですわ。リンクしているエントリもfinalvent氏ともう1名だけ。コメントもほとんど無し。と、いうことはこの「著名」がらみの含みは「著名なセンセなのにこんなこと書いてあらまあ...」みたいなことなんですかね。

別に変なことは書いてないと思うけど。「馬鹿話」とまでいってますね。根拠は何だろう?

一応finalvent氏は池上先生の文章の末尾を指して根拠と言っているみたいです。


一言で言えば、与太話だよーんという種明かし。(日本語の議論になってないじゃん)。

はぁ?...「日本語の議論になってないじゃん」ってどういうことだろう?そもそも「個別言語の類型論(の可能性)」の話だよね?池上先生の文章は。

日本語と英語の比較を例に出して「<有界>と<無界>」という認知言語学でいうところのスキーマを使って、名詞における<単数>/<複数>区別の有無や動詞における<完了>/<未完了>区別の有無についての選択が同一の認知傾向から説明できるのではないか、っつー話をしてますよね?更にその傾向がどういうものを焦点化しやすい文化であるか、ってことと密接に関係するってことについて述べてますよね?

その上でこれは「日本語独自というようなものではない」って書いているんですけど、これはここまでの論の流れから言えば当然の話じゃないんですかね。個別言語の類型論っていうのは個別言語をいくつかの特徴によって分類するという論であって、特定の言語が極めて独自であるとか(←極端な相対性という立場)いう考え方はしないものでしょうに。

<無界>と<有界>という指標が想定できて、その軸上に個別の言語が配置できるという話でしょ。日本語と英語を比べると日本語の方が英語よりも<無界>傾向が強いってことを言っているだけで。

そして他の言語においてもこの<無界>/<有界>における傾向性が様々な程度で見出せるということは、この傾向性が恣意的なものではなく「可能な人間言語」に共通して見出せるものだ、ということなわけですよ。これは「可能な人間言語」の姿を明らかにすることであると同時に類型論で用いる指標を見つけることでもある、という具体的事例なわけで認知言語学的類型論の可能性を感じさせてくれませんかね?

なんでこれが「与太話だよーんという種明かし」なわけ?ワケワカラン。そしてなぜかこんなこと↓を続けて書いてます。


日本語はそんな特殊な言語ではないですよ。文法構造は朝鮮語と同じ。

はぁ?...日本語が「特殊な言語」かどうか、なんて話は全然してなかったと思うんですけど。池上先生は。そういう論がかつてあったよ、って話をしていただけで。

で、finalvent氏が書いている話は池上先生の文章とは全然関係ないので、こちらも池上先生とは関係ないところで話をしますが、「日本語が特殊かどうか」というのは条件に依るんじゃないですかね、と言いたい。「文法構造は朝鮮語と同じ」っていうのもそう。条件に依るでしょう。あと「文法構造」っていうのも何を指しているのか不明だなあ。

池上先生の文章の冒頭で出て来た17世紀の宣教師たちの話でいえば、「彼らから見たら」という条件なら十分日本語は「特殊な言語」でしょう。彼らが知っていたヨーロッパの言語とはかなり違うもの。

ま、それでも彼らはちゃんと日本語を解析して資料を残してくれたわけですけどね。お陰で我々は当時の日本語の発音を知る手掛かりなんかを貰ったりできたわけですけど。

それに池上先生が「うなぎ文」について書かれていたあたりをfinalvent 氏はちゃんと読んだのでしょうか。統語論のレベルで同等の機能が仮にあったとしても語用論的な部分を検討するとまるで違うということがある、と書いてありましたよね。「特殊」かそうではないのか、あるいは「文法構造(←アヤフヤなタームだなあ...)」が「同じ」かどうかというのもどういう条件でそういえるのかを明示しなければ、何にも言っていないのと同等です。生成文法原理主義者ならどれほど明らかな違いがあっても「文法構造は同じ」って言い張る(そして同じになるまでコネコネする)でしょうし、それでも条件によっては正しい主張と言える場合もある。

更にこんなこと↓を書いてます。


で、日本語というのは。こういう謎の語彙を朝鮮語の文法で整えて出来た人造語ですよ。インドネシア語とかと同じ。現代ヘブライ語もそう。それをいうなら、ラテン語もそう(エトルリアだったかの語彙にギリシア語の文法をはめて作った)。さらに現代日本語は西洋語の翻訳語。

はぁ?...ここで書いている「文法」っていうのは「記述されて明示された文法」のことですよね?「記述されていない暗黙の文法」の話ではないですよね?それだと「文法で整えて出来た」なんてことは不可能だから。

で、「インドネシア語」「現代ヘブライ語」「ラテン語」については私は成立過程などについての学説を知りませんので判断がつきませんが「日本語」に関してはどう考えても納得がいきません。

ある言語の使用圏において、語彙だけあって、というか「記述されていない暗黙の文法」のみを用いて言語活動が行われており「記述されて明示された文法」は存在していない、という状態はありえるとは思います。そこに他言語の「明示された文法」が外部から導入されて、それに合わせて自分たちの言語の「明示された文法」を作るとか、大部分を流用するとか、無理矢理それに合わせて自分たちの言語そのものを変質させるということも有り得るとは思います。

で、それが日本語において一体いつ起きたというのでしょうか?百済で使っていた言語の祖語って何?

というかですね、百済から大量の帰化人が渡来したとかいう時期が5世紀初頭と言われてますのでそのあたりでしょうか。

でも彼らは自分たちの使用する言語について、どれだけ知ってたんでしょうね。大して知らなかったんじゃないかな。体系的な文法を記述するなんてことは出来なかったはずでしょう。出来たのだったら残っているはずだもの。完全じゃなくても何らかの痕跡ぐらいは。

あと百済から送られて来た経典とかそういうものは皆中国語っていうかシナ語で書かれたもので、百済の言語なんて全く入って来てないじゃないですか。寧ろインドで使われていた言語の文法の方が(シナ語経由で)影響を与えてそうですけど。いや、影響は無いと思うけど(笑)。

それにしても「人造語」ですか。誰が何の目的でそんなものを作って普及させたんでしょうか。全く意図が想像できませんけど。と、いうかそんな人造語だったならなんで日本にその言語形成に使用した文法書やそれについて記したものが全く残ってないんですかね。漢籍や漢籍の注釈書ならあるのに。

超不思議。でもアチラはTB不受理仕様なのでココで問いかけても返答はいただけそうにありませんな。

ま、そんな感じ。

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