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peopleをどう訳すか

【あらまし】 peopleの訳語として「国民」がふさわしいように思えるケースでもpeople=「人民」、nation=「国民」と訳すべきという立場に配慮してか「人民」が割り当てられることがあるように思う。peopleを「国民」と訳してはまずいのかどうか考察してみる。
【キーワード】 「人民」「国民」「people」「nation」「オグデン」「丸山真男」「加藤周一」

この話題について考えたキッカケはこちらのブログ記事です。こんな出だし↓。


明け方ぼんやりしていていて、ふと、"government of the people, by the people, for the people"の定訳、「人民の人民による人民のための政治」が誤訳なんじゃないか。なんで「人民」なんだ?と思った。the peopleは、単純な話、「国民」でしょ。

政治方面(と英語方面:笑)の話に疎いのでアレなんですけど、私は結構フツーに「人民」=people、「国民」=nationとかいう分類を受け入れてたので一瞬「!」と思いました。

コメント欄を覗くと賛否両論みたいですが、ちょっと改めて考えてみると「確かに...」と思えてきました。

と、いうかですね、どうやらこのpeopleっていう語に関して(少なくとも私は)思い違いをしていたような気がしてきました。

とりあえず普通の英和辞典(大修館のジーニアス英和大辞典とか)でpeopleを引くとトンデモなくたくさん訳語が出ていてワケワカメです。あとそこらへんの英英辞典(ロングマンの現代アメリカ英語辞典とか)なんかを読んでもやたらゴチャゴチャ出てて同じくワケワカメです。

なので変則的な技を使ってみます。「ベーシック英英いい換え辞典」(オグデン)で引いてみました(笑)。


people,s.,v. Persons; nation. (以下略)

以下略かよ!...すみません自分ツッコミです。ちなみにpersonについては Human individual って書いてました。あとpeopleはStandard English wordですがpersonやnationはBASIC WORDSです。

ここでいうBASICや「ベーシック英英」の「ベーシック」っていうのは British American Scientific International Commercial の頭文字から作った語で...とか言ってますが普通の英語をスタンダードって呼んでるんだからそんな風に呼ぶ意図は見え透いてる気もしますがね(汗)。

ええと、よくは知らないのですが、一応説明しますとBasic Englishっていうのは極めて少ない語彙(850語程度)に制限された英語みたいなもんです。簡易言語化っていうと普通(←?)は文法を弄ると思うのですがオグデンとリチャーズのコンビ(←一般には「意味の意味」の著者として知られている)は意味論というか語彙論方面の言語学者なのでこういうアプローチをしてきたみたいです。

全然普及しなかったみたいですけどね。でも日本でも洋販が「絵で見る英語」(リチャーズ他)なんかを売ってますね。1〜3まであります。1が250語、2が500語、3が750語と大変少ない語彙で書かれています。洋書の方は2005年に改訂版が出たようですし、案外再評価の兆しがあるのかもしれません。

そうそう、で、nationについてはこう書いてあります。


NATION, Community homogeneously governed.

何も略してませんよ!これしか書いてない!均一的に管理された共同体、っつーことですかね。フツーの辞書だと「国家、国民」みたいに書いてありますけど。

で、オグデンの辞典では「共同体の成員」つまり「国民」的意味が捨象されているように一見思えるのですが、たぶんそうじゃないんですな。peopleはあくまでpersonsであってpersonとは関係ないわけですよ。persons=nationだから「国民」というのは集合体のことを指すわけで構成員個人をさすわけではない。

「何当たり前のこと言ってるんだよ!池沼!プギャー」とされそうな話をしてますが、私的には結構「へーっ」ってもんです。つまりたとえば「国民の権利」といったときに私は「国家の権利」とは別のものと感じて(場合によっては対立するものとすら感じて)いたのですが、そうではないんですね。同じものだったんですよ。

翻訳と日本の近代」にはこんな話↓が載ってます。


丸山 複数と単数の区別がない、ということで思い出したのは民権のことです。「自由民権運動」は日本ではふつうの言葉だけれども、西洋人は訳すのに苦労する。いまでは、freedom and people's rights movementという訳語が定着してしまったけれども、最初は非常におかしく感じるらしい。つまり、people's rightというのはないんだね。rightはあくまで個人の権利で、民権という意味にならない。(pp.89-90)

この部分に続けて、「民権」という語には集合概念としての人民の権利と、個々人のindividualな権利の区別がない問題点を福沢諭吉が当時きちんと指摘していたこと等についても語っています。

people's rights だとまだアレですが nation's rights とか言い換えるとワカワカメになりますからな。freedom and nation's rights movement。「国権」に対抗するものとして「民権」と言っていたはずなのに何が何やらわからなくなってしまうわけで。

あとこの引用箇所の少し前にはこういう話↓も出てきます。


丸山 石田雄君が論文を書いています。中村正直(敬宇。一八三二〜九一)の『自由之理』をJ・S・ミル(John Stuart Mill. 一八〇六〜七三)の On Liberty の原文とくらべた。「J・S・ミル『自由論』と中村敬宇および厳復」というタイトルで、その後、『日本近代思想史における法と政治』(一九七六)に入ったけれども。そこにぼくの記憶ではたしか、「人民の総体」とあるのは、もとは「総体」という言葉がなく、訳で「総体」とくっつけたとか、「人民」と書いて、「人民」すなわち「政府」のことなり、とある例だとか、つまり「人民」と「政府」との混同など、いろいろなことを指摘しています。(p.88)

えーと、「日本近代思想史における法と政治」はアマゾンには無いみたいですな。そういう関係もあって確認はしてませんけど(←詭弁だ!)書いてあるのでしょう。「人民」=「政府」の例なんかが。

んー、だからアレですね、peopleっていうのは私のように英語がダメダメな日本人には今ひとつズレた感じで理解されていた語なんだなあ、という感想です。「人々」=「政府」なんて意味には絶対なりませんもんね、日本語の語感だと。

「語感」で思い出して「英語語義イメージ辞典」も念のために確認してみました。peopleは「人々、国民」って書いてあるなあ。例文にこんなの↓があります。


The peoples of the Northwest Pacific Coast depended for their livelihood almost entirely on salmon.

「北大西洋沿岸地域の民族は」ですね。peoplesは<民族+民族+民族>の意味合いって書いてます。peopleは<人+人+人>みたい。で、 a people は<ある一つの民族>となるようです。

まとめますかね。いや、まとまらないか。

peopleの方が構成員の多様性や不均質さを認める立場ってことですかね。nationに比べると。peopleは単にpersonの集合体ということで、personは様々だし。

とはいえ、全くバラバラではダメで集団としての統一感が無いとダメってことかな。その意味では結局 nation と区別がつかないものになる、って感じで。

なんか individual と person とか people と nation とか civilian と citizen とかグチャグチャめんどくさいっすよねー。そういえば大衆っていうのは public だけどその対照語は private で形容詞なんだよなーワケワカメで超メンドクセー。

超メンドクセーが結論だな(←オイ!)。

あ、あとここまで述べて来たこととは全く関係ない(←そうでもないか?)のですが、ちょっとオマケで書いてみます。

ええと、冒頭で引用したfinalvent氏の記事とその次の記事の中で「面々のおんはからい」が出て来たのでちょっと引っかかりました。色をつけて引用しますね。


「人々」とかになっているが、私の日本語の語感では「多様なる各人」みたいなもんというか「面々のおんはからいなり」の「面々」に近い。the peopleの語感とはけっこう違う。ま、これは日本語の感性の問題かも。

↑こっちが冒頭に引用した記事から。

昨日のエントリ”極東ブログ: 国民による国民のための国民の政府”でいろいろ愉快なコメントをいただいた。歴史認識についてはゆるりと議論すればいいし、他の意見の相違の類は面々のおんはからいにするがよろしかろう、多事争論ではあるが、にしても基本的な部分でテキストが読まれてないっていうか、昨今の人は言葉の持つ歴史の感覚っていうのはなくなっているのかなと思うことはあった。

↑こっちが次の記事。「面々のおんはからい」っていうのはたぶん親鸞上人かなんかのコトバですよね。宗教弾圧にあったら殉教なんかしないで「面々のおんはからい」で行けと弟子達に言ったとかなんとか。

で、これを吉本隆明なんかは高く評価して転向文学者の擁護に使ったんですよね。違う?そんでもってそういう吉本に鮎川信夫が「つーことはあえて殉教しても別に良いわけだよな?」っていうようなことをいったら「そんな選択肢はネー!」とか言ってファビョったとかなんとか。

なんでfinalvent氏は「面々の...」の話をここでしたんですかね。もしかしたら「はてな」でやってる日記の内容と関係するのかなー。「絶対化と相対化」みたいなことを言ってるヒトに絡まれてたみたいだし。時系列確認してないからよくわからんけど。

ま、絶対の反対は相対と一般的にはいうけど、そんで「相対化」の対照語は「絶対化」でも良いのだろうけど、もうちょっとニュアンスに神経質になれば「内面化」の方が良いんじゃね?と思ったりもした。

「面々...」の話でいえば親鸞に言われる前の弟子の脳内では「殉教」という選択が「内面化」されていて、「面々の...」を聞いて「相対化」されるわけですよ。「殉教」が。で、鮎川みたいな弟子がいたとしたら彼はあえてそこで相対化されたあとの「殉教」を選ぶ。それを選ぶというのは他の様々な選択肢を選ぶこととは質的に全く違う。「殉教」を選択したという点では最初のものと同じに見えるかもしれないけど、これは全く違うものなわけですよ。

「内面化」しているだけのものはその事実を指摘されればグラつくんですね。気づいてないだけだから。「殉教」しないという選択肢でいいんだよ!と言われたらグラつく。でもそれを知った上であえて選んだものはビクともしないわけだ。ビクともしないことを指して「絶対化」と言えばいえるかもしれない。でもそれは「相対化」の立場から批判しても「だから、何?」なものなんだよね。

ま、そんな感じ。

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