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寄生獣の解釈

いきなり私信から入りますが...

小飼弾さん、はじめまして。いつも(Perl5.8に)お世話になっております。こういう流れの中でこのように書くと何か裏があるように見えるかもしれませんが、純度100%の気持ちで感謝&リスペクトしております。

が、それはそれとして...(←!)

私の前回記事を受けての小飼弾氏のエントリ「平凡は強し、非凡は弱し」に関してちょっと「アレレ?」と思う部分がありましたので、その点についていくつか申し述べます。

ええと、その前に...

「寄生獣」は1995年に完結しているマンガですしかなり有名でもあるので「ネタバレ注意」は不要かとも思ってましたが、一応小飼さんに倣ってネタバレ注意警報発令!しておきます。あと引用などはすべてアフタヌーンKC版(全十巻)からです。

さて本題に戻ります。私が「アレレ?」と思った点は2つあります。片方は簡単な指摘で済みますが、もう一方はちょっとヤヤコシイので小飼さんの記述の順序とは前後を逆にして言及します。

まず1点めは「寄生獣」は滅びてませんよ?ってとこです。これについて小飼さんは以下のように書いています。


結局パラサイトたちは彼らを匿っていた広川ごと密かに駆逐され、「一人」残った「後藤」も新一とミギー、そして社会の生み出した毒(比喩ではなく本当の)の前に倒れる。そして社会は、今までパラサイトなどいなかったがごとき日常へと戻って行く。(略)「寄生獣」だけではなく、「七夕の国」もこのテーマに属する。しかし、その結末は大いに異なる。寄生獣たちは滅びたが、丸神の里は生き残った。それはなぜだったのだろうか。寄生獣たちが自制を学びきれず、丸神の里の人々がそれを知っていたからなのだろうか。

ここでいう「寄生獣たちは滅びた」というのが「東福山市を乗っ取ろうとした寄生獣のグループ」という意味でならその通りですが(でもそれだとちょっと説明不足な気がします)寄生獣全体については違うことが書いてあります。

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10巻のpp.152-153あたりを読む限りでは寄生獣もまた「自制を学」んだように読み取れます。上で引用した「なぜ彼らはおとなしくなったのか」という問いの答えとしては「攻防戦の見せしめ効果」「人間社会への潜伏がますます巧みになった」「本来の食性自体を変化させて人肉食を減らし『人間化』していった」というものがあげられています。

揚げ足取りが目的ではないので、これについてはこの指摘だけで終わりにします。ただ一つ付け加えると「『後藤』も新一とミギー、そして社会の生み出した毒(比喩ではなく本当の)の前に倒れる」というのには留保が必要かな、と思います。これについては後で言及します。

えーと、次にちょっと(かなり)ヤヤコシイ方について書きます。それは端的にいうと、寄生獣が「強いけど弱い」存在であり、人間が「弱いけど強い」存在であるということをどう解釈するか、という点についてのものです。非凡/平凡という二項対立はあんまり関係ないんじゃないか?というのが私の感想です。

この点について小飼さんは以下のように書いています。


個としての人はパラサイトの前に無力だが、パラサイトは「社会の人々」の前に無力だったではないか。「田村玲子」が指摘しているとおり。「彼女」(ここでも括弧付けなのは、パラサイトに性別があるかどうか不明だから)も言っていたではないか。「だからあまりいじめるな」と。

田村玲子がどういう文脈で「だからあまりいじめるな」と言ったのかをちょっと確認してみます。8巻のp.59あたりですね。

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彼女が「人間の感情では理解しにくいだろうからな」と述べているのは「寄生生物と人間は1つの家族だ、我々は人間の『子供』なのだ」という自身の見解についてです。上で引用したコマの中でもこれを言い換えていて、その文脈で「弱い」とか「いじめるな」と言っています。

人間であるシンイチは反発していますが、寄生獣であるミギーは「ふーむ」と言っている姿が対照的に描かれてます。「人間」には理解が難しく(感情的に)受け入れにくいが「寄生獣」なら(合理的に)理解できるらしいところがミソです。

この場合の(寄生獣が)「弱い」というのは、彼らの生態が人間の頭を喰って寄生することを必要条件としている以上(犬に寄生したのもいましたがイレギュラーらしいです)人間が存在していることが生存にとって欠かせない前提条件で、彼らのみ単独では生きていけない生物であることを単に指し示しているだけと受け取れます。その意味では「弱い」ことと「『社会の人々』の前に無力」であることは無関係といって良いでしょう。

ですがp.61で彼女が「後藤」を「か弱い『仲間』の1人ではあるが...無敵だ」と言ったときの「弱い」はシンイチが「その言い方は何だか矛盾してるぞ」と誤読することで別の意味を持ったように読めます。それに対して田村が笑った(←寄生獣が「笑う」のは異常)のはその誤読が意外であったことと、それによって彼女が考えていた問題の答えに不意に繋がったこと...ってゴチャゴチャしてますね。ちょっと仕切り直しますか。

ええと、「強い」とか「弱い」というのは比較対象があって成り立つものだと思います。両者は表裏一体の概念ですので、寄生獣が「弱い」とはどういうことか、という問題は同時に人間が「強い」とはどういうことか、という問題でもあるわけです。

田村は人間が「強い」ことについて仲間の寄生獣に警鐘をならしています。これは7巻のp.137あたりに出ています。

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ここで「少年」といっているのはシンイチのことです。シンイチは右手に寄生獣ミギーが共生していて、この時点でもう何体もの寄生獣を葬り去っており戦闘能力の高さでは寄生獣界でも一目おかれているはずですが、田村の解釈ではそっちは大丈夫といってます。一方「探偵」というのは前回のエントリで私が再三引用した情けない倉森探偵のことです。人間を深く研究している田村には倉森探偵が「強い」敵と予測されているのに対して他の寄生獣にはそれが理解できていない。

上で引用した部分の少し前で田村は「人間は個体個体を見ればずいぶんとひ弱な動物にも思える...けどそうじゃないのよ」とか「何万、何十万と集まって一つの生き物だ」とか「人間は自分の頭以外にもう一つの巨大な『脳』を持って」いてそれに逆らうと寄生獣でも敗北するとか言ってます。

この発言をそのまま受け取れば「パラサイトは『社会の人々』の前に無力」であると言っているようにも受け取れます。個々の人間は「弱い」けれど束になれば「強い」というように。

でもその理由では倉森探偵が「強い」ことは説明できません。倉森探偵個人が「強い」敵として彼らの前に立ちふさがる理由はそれではわからない。

うーん、この線も述べているうちに段々ゴチャゴチャしてブログで読むには面倒すぎる感じになってきました。ですので、更に仕切り直します。

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田村は人間の赤ん坊(自分が乗っ取った人間の身体から出産)を育てたりしていて、高い知性と好奇心をもった寄生獣として描かれています。そのため彼女は次第に普通の寄生獣からは理解できない存在となっていって疎まれ仲間からリンチ(3対1の勝負だがあっけなく彼女が知略で勝利する)にあったり、上で引用(8巻p.40)したようにミギー(彼も人間について深く研究している寄生獣)にさえ全く理解できないような感情を宿す存在になっていきます。

そして最後は赤ん坊を救う為に倉森探偵の誘いに乗って公園に現れ、彼女の能力なら簡単に逃げることも戦うこともできるのに敢てそれをせず、自分の(身体が生んだ)赤ん坊を守って刑事たちの銃弾を浴びて死にます。

その姿は「社会の人々」集団によって抹殺されたようにも見えますが、彼女が抵抗しなかった理由はそれとは別と考えられます。抵抗しなかったが無力だったわけではない。そしてその行動が意味するものは寄生獣であるミギーにとっては全く理解できないものであるが、シンイチには通じるわけです。

このとき彼女は「寄生獣であるが人間」であり「強いけれど弱いが弱いけれど強い」というものすごく複雑な存在になっているように私には解釈できます。

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彼女が死んだ理由は上で引用したコマで敢て語られていない「疑問」の答えを得るためだった、と私は考えています。「どうすればおまえを...おまえという人間の心を...」のあとに略された問いを無粋にも補完するとしたら、私は「救えるのか?」を入れたいと思います。

シンイチは母親を殺してその身体を乗っ取った寄生獣に一度殺されています。そのとき胸に大穴が空いてしまってそこが身体的に大きな傷跡になっている。ミギーの尽力で蘇生した後その寄生獣から父親を守るために自分で戦って相手を殺しています。その時点でそれは母親ではなくて母親の身体を乗っ取った寄生獣にすぎないのですが、彼の中ではそれが大きな癒されることのない心の傷になっています。

母親の死が彼にとって特別に大きな心の傷になっているのは、その死に責任があると倫理的に感じていること、そして彼の母親が幼いころのシンイチが台所でコケて頭から高温の天プラ油を浴びそうになったときにちゅうちょなく素手で鍋を直づかみして助けてくれて(2巻pp.49-53)自分の手が焼けることよりもシンイチの身を心配して鍋を握ったままでいたために出来た火傷が彼女の身体に残っていた、そういう身体を攻撃しなくてはならなかったせいと解釈できます。

彼は母親への負い目(というとちょっと違うが)から心身両面で「胸に穴が空く」ことになり、一方そのことで「強い」存在へと変わります。

「社会の人々」と言ってしまうとちょっと違うのですが、こうした個体の存続がどうのを越えたところでの他者との繋がり、他者の死に責任を感じ、他者の死を悲しむという感情が「弱い」人間を寄生獣をしのぐ「強い」存在にする...って話なんじゃないですかね。そういう意味では「社会の人々」を構成できない寄生獣(←なにがあっても「ああ、そうか」としか思わない)は、「強い」存在となる可能性を閉ざされているといえます。だから「弱い」。

ところで余談ですが「So what?」って何か「ああ、そうか」と似てませんか?

人間が束になった際の強さについて述べる前の7巻p.135で田村は倉森殺害に失敗した寄生獣たちに向かって「特に探偵本人を殺さず、その家族を殺すなんて人間の性質をあまりに知らなさすぎるわね」と言ってます。漠然と「社会」を形成するという意味で束になるのではなく、他者と強く感情的に繋がっていて、その繋がり(多くは対象者が失われることで逆に激しく顕在化する)が「弱い」存在を「強い」存在に変えるってことじゃないですかね。倉森探偵も田村に向かって「一時期ほとんど女房に食わせてもらってたもんでね...子守りはよくやったんだ」(8巻p.35)とか言ってますし。独白の中で妻子に対して「すまない」と言ってます。他者に対して「すまない」と感じられるのが人間なんじゃないでしょうか。

でもこうした「強さ」は容易に寄生獣的な「強さ」に変化してしまうものとしても描かれています。探偵は「赤ん坊を殺さなくて良かった」と言って死んでいきますが、これは(田村のおかげで)「殺せなくて」が本当のところでしょう。シンイチもまた何人もの他者の死を経験していく中で「強さ」が寄生獣的な「強さ」に、感情の繋がりを拒否し他者のために涙を流す事のない(「ああ、そうか」で済ましてしまう)存在へと変わっていくわけですが、それを食い止め、再び涙を流すことの出来る人間の心を取り戻させたのは田村の(寄生獣から見れば)不可解な行動だったわけです。

田村は「どうすればおまえを...おまえという人間の心を...(救えるのか?)」という疑問の答えを得たと言って死んでいきます。赤ん坊をシンイチに託して「心配するな」と言われると「ありがとう」と答え(8巻p.97)、自身ではなく他者の生存についての話で礼を述べるという寄生獣としては異常な、そして人間にはふさわしい行動のあと「人間のまねをして笑ったら気分がよかった」と告げて事切れる。

敵として死んだのではなく、赤ん坊の母親として死んでみせた。「その『種』を食い殺せ」という己の本能に逆らって赤ん坊を救い、シンイチの心を救い、倉森さえも(色々な意味で)救ってみせたわけです(蛇足ですが行きがかり上とはいえ倉森の妻子惨殺実行犯は彼女が始末しているので、直接カタキをとってくれたのは彼女ともいえなくはない)。

自らの不合理な死を賭して「(寄生獣だって人間みたいになれるんだから単なる敵じゃないんだよ)あんまりいじめるな」と主張し、それを受け入れて貰う為の対価を支払ったと私には読めます(つまり寄生獣全体をも救った)。むろん彼女もそれによって自身の好奇心を満たすことができたわけですが。

で、最後に「後藤」の話です。

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「後藤」は5体の寄生体が合体して形成された存在です。だからたぶん5頭→後藤という名前。田村が実験によって作ったとされる「束になった」寄生獣です。だから無敵。1体でも「強い」のにそれがある意味「社会の人々」化しているわけで。

でもそれは単に利害で繋がっているだけにすぎないところがちょっと駄目で、そこが結局彼の「弱さ」というか「弱点」だったわけです。

前の方で述べましたが「そして社会の生み出した毒(比喩ではなく本当の)の前に倒れる」というのはちょっと違うと私は思います。彼ら複合体が「人間的」に繋がっていたら体内に毒が入ってもどうということはないわけで、それはあくまできっかけだったにすぎない。彼らは彼ら自身の「弱さ」の前に倒れただけです。

10巻の付記にこういう作者の記述があります。


そこで「後藤」の最期の話に戻るが、初め「後藤」は死ぬ予定ではなかった。復活し始めた「後藤」を残し、新一はあのままスタスタ帰ってしまうのである。「後藤」はその後については二案あった。一つは完全復活したものの、汚染された日本を嫌い、巨大な翼に変形して美しい自然をめざし飛び去ってゆく、という案。もう一つは完全に復活できず、’人間に無害の別の生き物として山の中でひっそり生き続ける、という話だ。どちらも甘ったるい。そしてどこか無責任である。しかし破壊・汚染の元凶たる「愚かな人間ども」に対する、「美しき野生」「偉大なる大自然」の代表選手である「後藤」が、ただ滅ぼされてしまって良いのだろうか、という思いがずっとあった。(略)かくして第一話の冒頭の言葉は、人間のある種の代表である広川市長が引き継いでくれ、主人公はクライマックスでふり返り、戻ってきて自らの手を汚す、ということになった。

このことをもって「結果的には当初より内容が良くなった」と言ってますが、私も全くその通りだと思います。哀れな「後藤」をシンイチが自らの手で(ミギーではなく左手に持ったナタで)涙を流しながら(ごめんよ、と言いながら)殺したからこそこの作品はすばらしいものになった。広川市長のペラい演説風な、シンイチが手を下す前までのミギーとのやりとり(10巻pp.138-145)での発言のあと、もしそのまま立ち去っていたらペラペラガックシハァー...でしたよ。

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上のコマは6巻p.131に出てきます。この続きのコマで田村は「人間たち自身がもっと雄大な言い方をしてるじゃない『地球の生物全体が共存していかねばならない』」などと言って自説を補強しますがシンイチは「あんたの言うことはそれなりに立派な意見なのかもしれないけどなァ...」(感情として)許せないのだ、と答えたりしてます。

この作品全体を通じてこの両者のせめぎ合い、別の種類の「強さ」と「弱さ」のせめぎ合いが続いていて、作者はあらかじめ大枠は規定したものの、最終的にどちらを、というか何が是とされるのかは揺れ続けていたんじゃないかと私は想像してます。そして本当に偶々今ある形で決定されたんじゃないかと。

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上に引用(10巻p.221)したのは「後藤」たちを葬ったあと「人間だが寄生獣」的存在である浦上に襲われるエピソードの最後、そしてそれはこの物語の最後近くでもあるのですが、そのコマです。

この子イヌの話は3巻pp.119-135あたりに出てきます。母親のカタキ(?)をとって彼が「強い」存在になったあたりのもの。道路で死にかけている子イヌを救い出すが、結局助からずに死んでしまう。救ったことは人間的なのに死んでしまうと「もう死んだんだよ...死んだイヌはイヌじゃない、イヌの形をした肉だ」と寄生獣みたいに(合理的に?)発言してゴミ箱に捨ててしまう。そしてその行為のどこがおかしいのかわからなくなっている。

それでも結局木の根もとに埋め直すわけです。そしてその死骸が養分になって樹木にあたらしい生命となって受け継がれる...と考えた。その話が最後にまた(浦上との対決を通して)掘り起こされる。シンイチが「後藤」を始末する案が採用されたけれども、他者との「共存/共生」というテーマもまた棄却されたわけではなく...

だからこその名作なんですかね!(←エエーッ!)

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Tracked on April 10, 2006 at 10:07 PM

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