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自説の妥当性を検証するには

なんらかの軸で反対側となるような主張を考案してみて、それと自説のどっちが妥当か予めチェックしてみるのが良いのではないかと。そうすると無駄な議論を避けることが可能になると思います。

さて、この話はこちらからのTBに関してなんですけどね。一応「中」だそうなので途中で話を挟むのは控えようかと思って直接の言及はしないようにしていたんですけど、それだとなんだか落ち着かないのでとりあえず簡単にでも触れておくことにします。

私の方の関連記事としてはこちらに記事へのリンク用リストを作っておきました。何の話からこんなこと(?)になっているのか気になったかたは御覧ください。今書いているこの記事はなるべくあちこち参照しなくても話がわかるように書くつもりですけど。

さて、まずはhirokira1さんのこの主張について。


いくつかポイントはあるのだが、内田先生の言説を何が何でもトートロジーにしようとする点はお変わりないらしい。この点についてはこれ以上議論しても得るところがなさそうなのでひとまず打ち止めにしておくが、トートロジーを証明しようとするその説明がトートロジーになってしまう危険性というのは存外馬鹿にできないものだなとは思う。

(´ω`)...。ええと、ここで言及されている事象を反対の立場から見るとどうなるか書いてみますね。要するに私の側からhirokira1さんの主張を見ればこんな感じに見えるってことですけど。ちなみに上の主張には後で言及しやすいようにH1って名前(?)をつけておきます。

いくつかポイントはあるのだが、内田先生の言説を何が何でもトートロジーではないとしようとする点はお変わりないらしい。この点についてはこれ以上議論しても得るところがなさそうなのでひとまず打ち止めにしておくが、トートロジーではないことを証明しようとするその説明がトートロジーになってしまう危険性というのは存外馬鹿にできないものだなとは思う。

どうでしょうか。「トートロジーである」って感じの部分を「トートロジーではない」って変えるだけでほとんど文章を再利用できます。そしてこっちはH2と命名しておきます。

で、H1の最後のあたりで「証明しようとするその説明がトートロジーになってしまう危険性」とあるのは「トートロジーなんだからトートロジーなんだもん!」となってしまう危険性のことだと思います。これはH2では「トートロジーじゃないんだからトートロジーじゃないんだもん!」という形で同じくトートロジー化する危険を指摘したことになります。この「存外馬鹿にできない」危険を避けるためには「だってだってなんだもん!」とならないような根拠を示すことが必要でしょう。

さて、ところでH1とH2のどちらが妥当性のある主張なのでしょうね。内田樹先生ならたぶん両説を併記するところで話をやめてしまいそうな気がしますけど。

でも私は内田先生じゃないので、両説の妥当性の検証をチトばかしやってみようかと思います。

H1の前半部分にこうあります。


(私=犬桑が)内田先生の言説を何が何でもトートロジーにしようとする点はお変わりないらしい。

「何が何でもトートロジーにしようと」しているという根拠はなんですかね。私は確かに「トートロジーである」という主張はしていました。で、それに対して「それは勝手な牽強付会だ!」というような反駁がhirokira1さんからなされたので、内田先生御自身の文章を根拠に使って「勝手な牽強付会ではない」という再反駁をしたわけです。再反駁したことが「何が何でもトートロジーにしようと」しているということなんでしょうか?

「トートロジーである」という私の主張に対して反論があったので、それに答えただけです。これは正常な議論の一環ですよね。なんでそれが「何が何でも」ってことになるんでしょうか?

もしかしたら私が再反駁に使った根拠に不備がある(たとえば根拠や説明がトートロジー化しているとか)可能性はあります。私自身は不備が無いと思って書いていますから自身で気づくことはできませんけど。

しかしもしそうならhirokira1さんは具体的にそれを指摘すれば良いだけなはずです。なぜそれを(すべきなのに)しないのか?という点についてのもっとも簡潔で合理的な理由として「できないからだ」というのが想定できるんですけど、どうなんですかね。

そうだとすると「何が何でも」、つまり根拠も妥当性もないけど自分が拘泥したい説を主張しているのはH1で言及されている私の方ではなく、H1を主張しているhirokira1さんの方だということにはなりませんかね。というかぶっちゃけ、鉄板で「なる」と思ってますけど。

つまり以下に引用するH2の冒頭部分の方がH1の冒頭部分より妥当性が高いといえるのではないか、ってことです。


(hirokira1さんが)内田先生の言説を何が何でもトートロジーではないとしようとする点はお変わりないらしい。

そしてH1の後半部分で何を主張しているのかというと、私の説明(再反駁)がトートロジーっぽいと言っているわけです。いや、直接ハッキリ言わないで何やら臭わせる感じで書いてますけど。こんな感じで。

トートロジーを証明しようとするその説明がトートロジーになってしまう危険性というのは存外馬鹿にできないものだなとは思う。

「だってだってなんだもん」と語る言説はトートロジー的だと思います。根拠もなく自説をただ連呼することがトートロジー的であるということです。ところでこの「臭わせメソッド」(!)の部分を脱臭して聞いちゃいますけど、これは「(私=犬桑が)トートロジーを証明しようとするその説明がトートロジーになってしま」っている、って言いたいわけですよね?私の説明(再反駁)がトートロジーだ、というならちゃんと説明というか論証してくださいよ、と言いたい。これって根拠も無しで「だってだってなんだもん」て語ってるってことじゃないんですか?

だとするとむしろトートロジー化する危険に瀕しているのはH1で言及されている私ではなくて、H1を主張しているhirokira1さんの方なんじゃないですか?というかぶっちゃけ、鉄板で「そうだ」と思ってますけど。

・・・と軽く書いてみるつもりだったのに、ながっ!くどっ!他者とのコミュニケーションとはかくもイバラの道なのか...。

tm1

で、長くなってますけど、次にいきますね。


『犬桑』さんは頼藤先生が、さらには内田先生が批判する対象を「フェミニストにすりよる男たち」「大学の男性教員でフェミニズムにすりよっているヤツ」「お二人以外の「大学の男性教員」」(最後のは文脈から見て、恐らく「神戸女学院大学の」という限定付き)というように、相当に限定して考察されているようだが、これはさすがに無理筋というべきだろう。そもそも、頼藤先生のエッセイに「大学の男性教員」という限定は一切出てこない。

「これはさすがに無理筋というべきだろう」という主張で、その根拠として「頼藤先生のエッセイに『大学の男性教員』という限定は一切出てこない」ことをあげています。確かに頼藤先生のエッセイでは「大学の男性教員」という限定はしていません。それはその通り。でも「無理筋」とは思いません。頼藤先生が具体的に何と言っているか見てみますね。

公の場で書いたり喋ったりする時、ラディカルないしリベラルで、人権至上主義的で、事実上の性差さえ認めたがらない平等主義者の論客というのがいる。

まずエッセイの冒頭で「公の場で書いたり喋ったりする」機会があって「論客」である人のことに批判の対象を限定してますね。その上で以下のように書いて女性を除外してます。

それが女性の場合は、まあよくあるフェミニストなんであって、彼女の立場として納得できてしまう。

女性を除外した上で(おそらく頼藤先生は女性以外=男だとお考えだと思います)残りの男性についてこう書いてます。

問題は、男性が同様の論旨を言い募り書き散らす場合で、これに二通りある。ひとつは比較的若い男性に多く、私生活はおろか夢の中まで、およそ性別役割分業感覚がない。(略)これだと首尾一貫しているし裏表がないので、いっそ好感がもてる。いまひとつが曲者で、やや年配に多く、私的なテリトリーに帰ると君子豹変して、『めし、ふろ、灰皿』とか『だれに食わせてもらってるんだ』とかが出る。これは許せん。

残りの男性のうち公私の別なく「性別役割分業感覚がない」人も除外されてます。非難の対象は公的な場での言動と私的な場での言動が違うタイプの人間だ、と書いてます。さらにいえば公私の別なくchauvinistならそれはそれで良いとしています。

誤解しないでいただきたいのだが、このオッサンの正体が男尊女卑のショービニストだから許せないのではない。

ここまでを総合すると批判の対象となっているのは「公的な場ではフェミニスト風に書いたり喋ったりする論客で、私的領域ではそれと言動が異なるような男」ってことに限定されます。ちっとも無理筋ではないと思いますけど。「公的な場で書いたり喋ったりする論客」=「大学教員」としている点を除けばですが。これについては私の勝手な限定といわれてもしかたないかもしれません。

「公的な場で書いたり喋ったりする論客」に「大学教員」が含まれるというのはいえると思います。ただ一般にはこの両者をイコールにしてしまうことはありません。ではなぜ私はそうしたのかといいますと、それは頼藤先生が私的領域で「女房の下着を洗濯」しているかどうかを知り得る相手について語っていると考えたからです。公的領域での発言と裏腹に私的領域では「誰に喰わせてもらってるんだ!」とか言っている人間であるという確かな証拠を掴んでいる相手は身近な人間であろう、それは同じ職場の同僚か、その延長であろう、ということです。「公的な場で書いたり喋ったりする論客」のうち私生活までよく知っているのは「大学教員」だろう、ということです。

ただ、こういう風に私が反論してもhirokira1さんには私が議論を矮小化しているように見えるおそれがあります。あるいは「何が何でも矮小化しようという点ではお変わりないらしい」とか書かれちゃうかも。

tm2

ですので、ドミナントなアレにも言及しますかね。


「世渡り上手」にドミナントなイデオロギーによりそってゆく人々のエートス

ドミナントっていうのは「支配的」ってことで、エートスっていうのは「性質」くらいなものでしょうか。で、頼藤先生は確かにエッセイの中でこれを批判してます。内田先生も批判してます。とりあえずこれをE1って名付けておきますね。

で、このE1が問題なのは「世渡り上手に」の部分があるからですよね。ここはたぶん「世渡りのために」と書き換えた方がわかりやすそうです。

なぜなら世渡りと関係なく「ドミナントなイデオロギーによりそっていく人々のエートス」そのものが即悪とは言えないからです。そうじゃないと「地球は丸い」というドミナントなイデオロギーによりそっている我々は悪ですか?ということになります。

そして「世渡りのために」ってのがダメなのはイデオロギーの中身については何も考えていないから、とはいえませんかね。つまりドミナントであるかどうかだけを問題にして、その点だけに気を配っているところが「世渡り上手」で卑しい性質だということです。

合理的理性的に検討を加えて本当に心から「正しい」と思えるイデオロギーによりそってみたら、それがたまたまドミナントなものだった...ということがあった場合、その人もまたE1だと言われて非難されなければならないという理由はないと思います。

たとえば内田先生は頼藤先生のエッセイに言及した日記でこう書いてますね。


それは敗戦の直後に、それまでの軍国主義の旗振りから一夜にして宗旨替えして、「民主主義」の旗振りになった「世渡り上手」な知識人たちに太宰治や大岡昇平や小林秀雄が向けた批評の視線に似ている。

ここで批判されている「世渡り上手」な知識人は確かにE1の保持者だと思います。ポイントは「一夜にして宗旨替え」ってところですよね。具体的には誰でしょうか。平野謙とかは特にひどかったという話を聞いたことがありますけど。

軍国主義が絶対に正しいと考えていたなら簡単に宗旨替えはできなかったはずで、簡単に民主主義の旗振りになったってことは、結局軍国主義も民主主義も信じていなかったってことになるわけで、そういう人間の言動をみれば、ああ、この人はE1持ちだなあとはわかります。

ところで、一方内田先生は御自身についてこんな風に語ってます。


その心根の卑しさは彼らがフェミニズムが衰退する日にどれほど素晴らしい逃げ足でフェミニズムを棄てるか、どれほど憎々しげにフェミニズムを罵倒するか、それを見ればあきらかになるだろう。(その日はじきに来る。)そして、私はそのときにこそ「フェミニズム断固支持」の旗をかざすことになるだろう。

問題点は二点あります。1つめはフェミニスト的主張をする人間はE1の系列に属する人間だ!と散々書いておきながら、その関連性の証明は「その日はじきに来る」という予言に委ねてしまっている点です。これは現時点では関連性について論証されていないということですよね。

もうひとつは内田先生が、フェミニズムが衰退する日、つまりフェミニズムがドミナントなイデオロギーではなくなったら「私はそのときにこそ『フェミニズム断固支持』の旗をかざす」と言っている点です。

これってE1の裏返しなだけじゃないですか?つまりこういうことです。


「世渡り下手」にドミナントなイデオロギーにだけはよりそわない人々のエートス

これをE2としますか。で、内田先生はE2保持者なだけじゃないの?と思えてならない。そして案外E2的に「ドミナントなイデオロギーをドミナントだという理由で避ける」戦略は「世渡り下手」でもないのかもしれない。そういう人への支持者というのが実はそれなりにいたりしますし。例えば社民党支持者とか?(←これは上手い例じゃないなあ...)

いや、「世渡り上手」に比べたらそれでも基本的には「世渡り下手」なんだから別に良いのかもしれませんけど。でもE2だって、イデオロギーそのものの是非は一切考えないで、ドミナントかそうじゃないかだけ気にしているという点ではE1と同じようなものなんじゃないの?と私には思えます。

「軍国主義ハンターイ!」って叫んで憲兵と喧嘩してたのに、E1連中が「一夜にして宗旨替え」するとそれに対応して今度は同じく一夜にして宗旨替えして「民主主義ハンターイ!」と叫んで大暴れする、みたいな感じで。なんでしょうね、ロックって感じですか?知らんけど。

E1とE2は「ドミナントなイデオロギー」にそれがドミナントであるというだけで追従するか、それがドミナントであるという理由で反発するか、という点では反対の性質です。でもどちらも「イデオロギー自身の是非を考えない」点では同様です。ドミナントかどうか、にのみこだわっている点で同じだということです。

簡単に書くつもりがまたアホほど長くなってしまいましたけど、なんでしょうね、「矮小化」(?)して語ってもそうじゃなく語っても、やっぱり同じ結論に達してしまいます。それは内田樹先生が言ってることは文字通り、つまり事実言明として受け取るとメチャクチャだということです。

ina

そしてあともう1点書かねばならないことが残ってしまいました。hirokira1さんがソーカル事件の話を引っ張って来てくれたわけですが、さすがにそれについてまではこの記事では書けません。ただ一言だけ意見を言っておくと、ソーカルたちが主張していることはそのまま(内田先生が数式を使っていなくても)内田先生の言説への痛烈な批判になっていると思いますよ、私は(直接ではないですが一応根拠提示に関連するものとしてこちらを示しておきます)。

あとアレですね、hirokira1さんがそのソーカルたちによる「知の欺瞞」を読んで人ごととして笑っている内田先生の日記を提示してくださいましたが(←感謝!)、これは本当に私には衝撃でした。まだチョビチョビとレヴィナスを読んでいる段階なので判断は留保しますけど、うーん、なんと言ってよいのやら...長くなるので、また次回にでも書きます。

とりあえず、この記事はここで終わっておきます。では。

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Tracked on November 06, 2005 at 11:00 PM

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