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内田式論法ネタの後始末(3)

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ファイナル。誰がなんといってもファイナル。

というかですね、爆ロング化した「コメント受付」での(主にKyucoさんとの)やりとりでこのネタはイイカンジに終わったでのはないかと。改めて何か言うと蛇足になるかな、くらいには思ってました。

懸念材料としては「寝ながら学べる構造主義」を紹介してくださったmamodolianさんが私のリアクションを見てガッカリしているのではないか、とか「今日はこのへんで勘弁しといたるわ(@吉本新喜劇)」と匙を投げていってしまわれたover40さんがこのところブログを更新してないけどそれは「オイラのせい?ガクブル」とかいうのは確かに残ってます。...と書いてから今直接WEBブラウザで見たら問題解決?してました。普通に更新してますね。あれれ?RSSリーダが記事を拾ってこないので、テッキリ更新止まってると思い込んでたのに。

ま、それでも(汗)こういうものは私のネット上での振る舞いとか議論の仕方とかそういう点での問題なので内田式論法とは直接関係はないといって良いのではないかと。だからこれが解決していなくても(内田式論法ネタ記事としては)終わりで良いのかな、とか思ってました。

で、一応最後にKyucoさんとのやりとりについてまとめ的な記事を書いて、リアクションをくださった方々への謝辞を書いて、あとショボショボ読み始めたレヴィナスのこととかも書けば良いかなと。もう月も跨いで三週間にもなるし。

・・・ところがそうは問屋が卸さないってやつですよ。こちらから長編(予定)記事のTBがっ!ぎゃーっ!(←楳図かずおキャラの顔真似で)

だめだ、こういうリアクションするから無礼なヤツに見えてしまうんだ。ちゃんとヤレ!オレ!

ええと、ただもうたぶんここから先は「内田式論法」そのものの話とは違ってくるかなあ、と思ってます。なので「内田式論法」ネタというよりは別件として扱っていきたいと考えています。先方の了承はとらないで勝手に私が考えているだけなんですけどね。

Kyucoさんとのやりとりの中でふと思ったのですけど、やっぱりなんというか、議論の噛み合い感っていうのはある程度共通の土台があって初めて可能になるんじゃないかな、と。なんでしょうね、ハビトゥスというのはこういう場合に使うとまずいのかな。よくわかりませんけど。言い過ぎたりする部分と言い足りない部分のバランスの取り方の違いというか。

hirokira1さんとのやりとりではちょっとそういうのを感じます。そういうの、っていうのは共通の土台の無さというか作法の違いというかポイントの違いというか。

あ、でも先に書いておきますけど「夜霧よ今夜もクロコダイル」にある2001年4月18日の日記と「哀愁の...」の繋がりの御指摘には(良い意味で)驚きました。ありがとうございます。独力で気づく可能性はほぼ0だったと思いますので。

でも前回「曲学阿世」という語を使われたときにもうすでに御存知だったんですよね、この日記のことは。ちょっとイヂワル...。

ええと、で、読んでみたのですけど、この頼藤和寛先生がおっしゃっているのは「フェミニストにすりよる男たち」のことですよね。公には被差別当事者(=女子)に媚び売っていて、私生活では男権主義者であるような連中。つまりフェミニズムで言われているようなことを「正しい」と思っているわけでもない、というか自分が口にしているようなことを信じてもいないくせに、他人を攻撃するときにはそれを便利な道具として利用しているような辻褄の合わない連中。

男子のくせに女子におもねっていて、しかも裏に回れば女子を抑圧しているようなタイプ。この態度を曲学阿世と呼んでいると。ただ注意しないといけないのは、この尺度だと女子(=当事者)で調子に乗っているフェミニストはその態度がどうあれ「曲学阿世の徒」ではないってことですよね。女子が女子におもねってフェミニズムの言説を使っているとは、どんな場合でもみなさないってことで。


功利的な動機からフェミニズムによりそい、「セクシスト」退治のキャンペーンにぞとぞろつきしたがっている人々は、スターリン主義の時代に隣人を密告し、文化大革命のときに隣人に「三角帽子」をかぶせて唾をはきかけ、軍国主義の時代に隣人を「非国民」と罵った人々とエートスにおいて同類である。

上記の引用箇所をみても「男のくせに(隣人である、仲間である)男をセクシストと非難する」行為が「(自分と同じであるはずの)隣人を密告し唾をはきかけ罵る」行為と同類だっていうことを言ってますよね。

この日記の文章からわかるのは内田先生が非難しているのはあくまで「彼ら」のことであってそこに「彼女ら」は含まれていないってことです。「大学の男性教員でフェミニズムにすりよっているヤツ」がここで言われている「曲学阿世の徒」なわけです。ただ頼藤先生が主張しているのは以下のようなことですよね。


それをなんぞや、巧言令色、世に阿って学を曲げる。曲げるなら曲げるで、私生活でも女房の下着を洗濯し、隣家の主婦と談笑しながら、それを干すべきである。

(男権主義という自らの学を)曲げるなら曲げるで一貫させろ、と。ほんとは曲げてもいないくせに表向き曲げた振りをして曲げられない連中を非難するなと。本当は曲げられないなら曲げませんと言えと。つまり自分は男権主義者(封建主義者?)であると表明せよ、ってことでのようで。

もうちょっとイヂワルに言うと、正直に曲げられないと表明している自分らの方がああいう連中より素敵だろ?ってことがメッセージなのかなとも思います。

ところで「哀愁の...」で内田先生が教条主義者と呼んだのはここで言っている「曲げたふりをしている男子」=「彼ら」のことでしょうか?とてもそうは読めませんでしたけど。

ええと、hirokira1さんの記事に戻りますけど、こんな風に書いてますね。


『犬桑』さんの「それって別にフェミニズムに限った話じゃないんじゃないの?」という指摘は、ここで書かれている内田先生の感想そのものと言える。その限りにおいては、『犬桑』さんの読み方は極めて的を射たものである。ただ、そのことに気づいた後、それをどのように展開するかという点では、内田先生と『犬桑』さんとでは全く逆の方向へ行ってしまったように見える。

たぶんこのあとこの「逆方向」について色々書いてくださるのだとは思いますから、それについては留保しておきます。ただ、繰り返しになりますけどやはりマズイと思いますよ。これは。

内田先生の脳内に4年前に書いたこの日記の内容が残っていて、今回「哀愁の...」を書いた可能性は高いと思います。で、そのときにもともとは「女子におもねっている大学の男性教員」に向けて「オマエ等なんて今はそうやって自分の信念を曲げてヘコヘコしているけど後になったら掌返すんだろ!」という批判だったものが、同じような構図を使って今度は「大学の男性教員」→「フェミニストの教条主義者」への批判に変化しているわけです。

「夜霧...」の方は神戸女学院でアンチフェミニストの大学教員が内田先生だけかと思っていたら頼藤先生もそうだったのでうれしかった、と書かれていますから、批判の直接の対象はお二人以外の「大学の男性教員」とはっきりわかります。でも「哀愁の...」の方とは言及している対象はかなり違うはずなのに大まかにフェミニズムネタということで同一構造のロジックで(今度は具体的には誰をさしているのか、何を指しているのか、は不定のまま)批判を展開してしまっている。これは内田先生が何かの意図があってわざとやっていることなのか、それとも単純に御自身の脳内で混同してしまっているのか、現時点では私は判断できませんけれど。

そして、もう一点hirokira1さんの記事について言及しておきますね。


確かに「フェミニズムの邪魔をしているのは邪魔者だ」という命題は「トートロジー」であり、「何の意味もない」同語反復に過ぎない。だが、それと「フェミニズムの発展を阻害しているのは曲学阿世の徒だ!」という命題とは同一のものではない。言い換えるならば、「曲学阿世の徒」イコール「学問の敵」イコール「邪魔者」というのは無理がある。

ええと、内田先生は「支配的な社会理論には、それがどのようなものであれ、必ずそれを教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する『寄生虫』が付着する。」と「哀愁の...」では書いています。

これを参照して「フェミニズムの発展を阻害しているのは曲学阿世の徒だ!」=「フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊しているのは寄生虫だ!」だったらいくらなんでも異論は無いですよね?

で、内田先生は「寄生虫」という喩を「支配的な社会理論には、それがどのようなものであれ、必ずそれを教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する」ものがいて、そいつのことだと定義しているわけですから「フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊しているのは寄生虫だ」=「フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊しているのは支配的な(中略)生成的な要素を破壊するヤツだ」ってことになりますよね。トートロジーじゃないですか。違いますか?無理なんて全くありませんよ。

ですので「詰まるところ...(略)...疑念を禁じ得ない。」については、なんといえば良いのか。「禁じてください」としか言えません。

あとこれですかね。蛇足ながら。


状況によって彼らが「主」に仇なすことがあるからといって、すなわち「主」の「敵」である、「邪魔者」であるとして、それ以外のファクターを全て捨象してしまうのでは、「コバンザメ」や「タイコモチ」や「寄生虫」が可哀想である。

可哀想かどうかは私の与り知らないとことですけど、一般的にどう表象されているか、ということよりも内田先生がどういう意味で使っているか、が重要だと思います。言うまでもないことでしょうが。

そして、内田先生はコバンザメやタイコモチや寄生虫という喩を「教条主義者」(正確には「教条主義者」という言葉は使ってませんけど)に対して使っていますよね。「教条主義」を広辞苑で引くとマルクス主義用語として出てきます。


(dogmatism) マルクス主義を発展するものと見ず、その古典に述べられている命題を絶対的な教条と考え、当面する具体的な諸条件を吟味せず機械的に適用する態度。原理主義。

反意語は「修正主義」のようです。

(revisionism) マルクス主義を修正し、改良主義・議会主義を強調する立場。ドイツ社会民主党におけるベルンシュタインの主張の類。修正社会主義。

マルクス主義と関係ない意味も当然あるとは思うのですけど、なぜか私の持っているのには載ってません。日常の文脈で使われるときには説明抜きでこの意味になるってことですかね。

内田先生はこのマルクス主義での構図をそのままフェミニズムに当てはめたのかな、とか思います。実際もう一度よく「哀愁の...」を読み返してみると以下の部分にそれらしき記述もありますね。


今はサード・ウェイブ・フェミニズムだと言われているから、すでに先立つ二つの「偏向」(あるいは「先駆的形態」あるいは「修正主義」)は駆逐されたらしい。

最初読んだときは気づかなかったのですけど、ここで内田先生は「先立つ二つの『偏向』」の内容をカッコ内に補足していたようです。つまり、フェミニズム第1波=「先駆的形態」、フェミニズム第2波=「修正主義」ということなんですね、これ。「ウーマンリブ」って「修正主義」だったの?とか思いますけど。マルクス主義フェミニズム史観?なんでしょうか。

で、これは前回も書いたようなことなので繰り返しになりますけど、「(害悪としての)教条主義者」というのは客観的に誰にでも納得がいくように一意に決定されるものではありません。修正主義者の立場から見たら、自分たちが正しいと考えている理説と反するので悪に見えるということです。レッテル貼り、というのは大抵こういうものですけど。誰から誰への、ってところが重要というか(汚職警官から見ればマジメに勤務している警官は"悪しき"教条主義者かもしれませんし)。

フェミニズムにおける教条主義者も同様です。教条主義者であることが(フェミニズムの理説にとっての)タイコモチやコバンザメや寄生虫であるというなら、それは特定の条件というか文脈において具体的な事例をもって断定されなければいけないはずです。それが無いなら少なくとも「事実認知的言明」としては無内容だ、ってことになりませんかね。私にはなるとしか思えないですけど。

この点については


その方向性の違いが、結局は内田先生の当該エントリに対する評価の違い、『犬桑』さんと私やOver40さんやその他内田先生の話を面白がる人たちとの差異に繋がっているように思えてならない。

という部分の謎解き(?)に期待するしかないですね!

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