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内田式論法ネタの後始末(2)

(→関連記事
ええと、何かの事情で(検索とか?)いきなりこの記事に来てしまった方のために説明しておきますね。

この記事は先々週末から延々続いている著名ブロガー内田樹先生ネタの後始末のための記事「その2」です。なんのことやらわかりませんよね。すみません、ここの出だしのあたりを読んでいただけると事情はわかるのではないかと。

で、この記事ではいただいたコメントへのリアクションを書いてみたいと思います。ただ、私は基本的にブログ同士でのTB合戦みたいな形でしかやり取りをした経験がないので、コメントをどう扱って良いのか、今ひとつわからないでいます。色々落ち度とかもあるかもしれませんが、どうかよろしく(←?)。

で、該当コメントはこちらの上から3番目くらいから。mamodolian氏、Kyuco氏、 kansai845氏のお三方です。mamodolian氏とkansai845氏からは二つ戴いてますね。Kyuco氏はこちらでブログもやってらっしゃるみたいです。

さて...どう書きますかね。やはり順番通り言及すべきでしょうね。まずはmamodolian氏の一つ目のコメントから。


『具体的な議論や検証が不可能』については内田先生(のブログ)の魅力はアフォリズムにあって、ccoeさんの言うように注釈をつけていたら面白さ半減な訳ですよ。

aphorismだったんですか...。その割には長いような。HATI(←(1)を御参照ください)なのにaphorism?というかaphorismを使って具体的な対象を根拠も示さず批判するのはどうかと思います。

「面白いって大事」とも書かれていますが、それはその通り。でもそれが何よりも大事というわけでもないと思います。面白けりゃなにをやってもいいのか!とかHATI なことも言いたくなります。


「俺はこんな風に書いているけど君はどう思うんだい?ほう、NRAは正しい。EBMは絶対に必要?書き方がフェアじゃない?なるほどね」そう言われます。そしてそこから先は自分で考えなきゃいけない。先生の中に正解があるわけではないんですから。

すみません。NRAって何ですか?あとEBMも。私は新興宗教の信者でもないですし、インチキ武道の門下生でもないので、そういうノリにはちょっとついていけません。師を信じよ!みたいな感じですか?現代思想の真逆みたいな発想法ですよね。

・・・うーん、なんとなくキツイ感じでリアクションしてしまっているような。御免なさいね。謎掛け修行形式みたいなノリを生理的に受け付けないためのアレルギー反応みたいなものです。

で、mamodolian氏の二つ目のコメントに対して。


内田先生がイワズモガナなのはそれこそ戦略的なのです。ご本人が「常識主義者」のエクリチュールを選んで書いているのですから(てなことが著書の中に書いてあるんだよなー。昨日探したけど見つからなかった)。

「?」が頭に点灯しました。「『常識主義者』のエクリチュール」ってとこにですけど。なんか前にもこれに似たものを見た気が...R30氏のブログだった気がするのですけど、検索窓とかがないので探せなくてムズムズする...。そういえばR30氏も確か内田樹先生の大ファンだったような。

ええと、愚問かもしれませんがmamodolian氏は「エクリチュール」をそういう用法で使うのが(現代思想という場においてさえ)一般的ではない、というのは御存知ですか?「一般的ではない」というのはそれがバルトだけによる特殊な用法(←しかもバルト自身の中でも変容している)ってことですけど。それにバルトの用法に倣っているにしても何か勝手に意味を拡張している気配が...。

なぜ?

とかいいつつ、その謎は簡単に解けました(と思う)。


まあ「寝ながら読める構造主義」を読んでください、としか…(それで駄目ならスマヌ)

どうやらこの「寝ながら学べる構造主義」(「寝ながら読める...」というのはなかったのでコレで良いのですよね?)というのがクセモノっぽい。

ラングにせよ、スティルにせよ、私たちはそれを選ぶことができません。(私にとって日本語はそれなしには何も考えることのできない母国語ですし、語感やリズムに体する好みは、意識的に変えようとしても変えられません。)しかし、ある国語の内部に生まれ、ある生得的な言語感覚を封印されたとしても、それでもなおことばを使うときに、私たちはある種の「ことばづかい」を選択することが許されます。この「ことばづかい」が「エクリチュール」です。(p.120)

バルトが「テクストの快楽」で定義した「エクリチュール」の意味を許容範囲限度内で拡張して適当に説明するとこうなりました...というものとしては問題ない定義だと思います(←チンピラのくせに偉そうだな!オイ!←うるせーバカ!)。

でもですよ、これって入門書なんでしょ?それなのにバルトのところだけじゃなくて、全部読み返してみても一言も「エクリチュール」が第一義的には「書き言葉」とか「書かれたもの」のことだって説明してないのはどういうことなんですか?バルトの定義はそれを前提にした上で、そうした「書き言葉」をどう捉えるか...ってことなわけでしょ?

っつーか、ぶっちゃけ、構造主義前史みたいな話をすんならさー、マルクスとかニーチェとかフロイト(なんでドイツばっかり?)で紙面使っちゃうより、西欧の伝統的な音声(言語にとって本質的で本来的なもの)と文字(二次的なもの)に対する価値付けの話とかしておかないとアレじゃね?あと名詞論偏重主義とかさ。

っつーか、そもそも構造主義をなんかしらんけど"悪しき"文化相対主義と同義に語っちゃってるしな。


構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。(p.25)

個々に独立した主体がよりあつまって社会(社会に限らんけどさ)を作っているという従来の考え方に対して、そうした社会(社会に限らんけどね、諄いけど)が実はそれ自身で独自の構造を持っていて、そこに属するもの(色々だけどね)のアレコレを決定づけるのだ!と逆転して考えるのが主体中心主義に対する構造主義なわけでしょ。だから「構造」主義って呼ばれるんじゃねーの?構造のモデルが色々だったり、それで説明しようとする対象が色々だったりするわけでさ。第一義的にはこういうことなんじゃねーの?なんか内田先生のは偏ってね?っつーか説明端折ってね?で、読者は自分たちが偏ったものを読んでいるってことを知らないわけでしょ?入門書なのにおかしくね?

でさ、「寝ながら学べる構造主義」を読んでちょっと、っつーかかなりムカ入ってヤサグレてるんで口調厳しくなるけどさ、内田樹ファンで内田先生の著作しか読まない人っていうのはなんつーのか、内田先生に選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」状態で、なんかそれ以外が視界に入ってないんじゃね?現代思想とかナメてね?

・・・とここまで書いたところで、あんまりヤサグレてるので自主的にドクターストップ(←!)って感じで中断しときます。mamodolianさんをなんか槍玉にしたみたいな感じになっててすみません。そういうつもりではないんです。mamodolianさんに対して怒っているわけではありません。コメントありがとうございました。

ただ、なんというか、お勧めいただいた「寝ながら学べる構造主義」を読んで怒り心頭なもので。自分の中だけで黙っておさめておけないほど怒りで打ち震えてしまって辛いです。「曲学阿世の徒」というコトバと角川春樹にクリソツな人物の顔が私の脳内で猛烈に交互に点滅してます。関係づけされそうです。

ただ今は頭に血が上っているからそう感じられるだけで、冷静になって(←なれるのか?)みたらまた別の感想なりなんなりが出てくるかもしれません。そういう留保とover40氏の返事待ちもあるので、後日あらためて他のコメントをくださった方へのリアクションなどを(3)として書きますね(←そしてそのへんでさすがにこのネタは打ち止めにしときたい:笑)。それでは。


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