内田式論法
(→関連記事)
一つ前の記事で「人気ブロガー内田先生の面白さを教えてくださいファンの方々!」と呼びかけたらお二方からリアクションを頂けました。ありがとうございます。
ただ...やっぱりわからん(←!)。全然わかんないです。
hirokira1さんの記事にover40さんの記事内容も言及されているので、前者の記事からちょっと引用してみますね。
「何も語っていないように見える」論理展開こそが「内容」そのものであって、具体的な事実検証などは枝葉末節に過ぎない、というところだろうか。内田先生を面白がっている人たちは、その論理展開という骨組みに、それぞれの「自分の興味領域」(@Over 40)を肉付けして読んでいる。逆に言えば、この「骨組み」と「肉付け」の間の“ずれ”こそが内田先生の面白さであり、本質なのだろうと思う。
一般論として「論理展開こそが『内容』」という文章の面白さ、は私も理解できます。そうした骨組みを用いて自分の関心領域を読み解くという面白さも同様に理解できます。
ただ、敢えて言葉を選ばずに強い言い方をすれば、内田先生が提供している「骨組み」は非常にアリキタリで通俗的でイワズモガナだ...と私には見えます。
今回の「権威性を笠に着るだけの言動と、その本質とを混同するな」という「骨組み」はもっと単純に言えば「タイコモチって嫌だよね」と言っているだけですよね。どんな場にもタイコモチとかコバンザメとか寄生虫とか教条主義者的な人物はいるでしょうし、そういう人々は嫌われるでしょうから、こういう話はどんな人にとっても(←場合によっては他者からはタイコモチだと思われているような人々にさえも)「あ〜、そういうのアルアル!」ってことになります。でもそれだけじゃないですか。そんなこと今更もったいぶって語られてもなあ...と思ってしまいます。
こんなのだったらいっそ逆に「諸悪の根源とされるような教条主義者が実はナントカ主義の発展にどれだけプラスの貢献をしているのか君たちは知らんだろう!」とか大見得を切ってアクロバティックな論の組み立てで華麗に「論理展開」していただければ「はう!センセースゴーイ!」って私なんかも思うのですけどね。
っていうか現代思想をやってるような人はそういうことをするのが仕事だと思ってました。私は。
それともう一点、内田式論法で気になるのは、通俗的理解でなんでもわかった気にさせてしまう効果です。例えば今回で言えばフェミニズムというのがどういうもので、その理論の発展史みたいなものが実際にはどうなっているのか、が全くブラックボックス化されたままで語られていますけど、over40さんもhirokira1さんもその点は全く気にしてませんよね。どう思ったんでしょうか。
ここで長々書くことはできませんけど、少なくとも私の知っている範囲の知識で考えてみても自信をもって内田先生が書いていることと実情は乖離していると断言できます。つまり或る程度以上の解像度で見ると全然当てはまってないのですよ。
前回の記事でチラと言及した杉本博司の写真に「海景」シリーズとか「劇場」シリーズっていうのがあります。「海景」っていうのは世界中の海を皆同じ形式で撮影したものです。モノクロで空と海が上下に一対一になるような構図で撮っているものです。「劇場」っていうのは映画館で「映画1本分の長時間露光」によって撮影したものです。
「海景」だとそれがどこの海であってもほぼ同じものに見えるし、「劇場」のスクリーンもどんな映画がかかっていてもほぼ同じようなモヤモヤしたものしか写っていないのでやはりどれも同じようなものに見える。
内田式論法と似てます(←と私は思っている)けど、こちらは「写真」という、極めて「概念」的なモヤモヤしたものを写し取りにくい(←写真には個別のモノそのものしか写らない)ものでそれをやっているから価値があるわけです。一方、コトバは普通にしてるとモヤモヤしているものなので、それにエッジを効かせてクッキリさせることに価値があるわけですが、内田式論法のキモはモヤモヤというか区別がなくなるほど単純化して語ることにあるので、これは駄目じゃないですかね。
うーん、またなんか長くなってしまったし、せっかくリアクションしていただいた方々にネチネチ絡むような文面になっててちょっとアレですけど。
ええと、内田式論法の「『・・・はもう終わった』プロパガンダの伝播力は恐るべきものである」についてover40 さんはこんな風に肉付けの例を出してます。
たとえば、もうずいぶん昔の話題になっちゃった感がありますが、ガ島さんの「ブログの「終わり」と「始まり」」とか思い出して、ニヤニヤしてました。なるほど、そう読むと面白いなあと。
ガ島さんの意図はブログ界隈に跋扈する寄生虫駆除にあった...って解釈できるというのかな?あんまりそういう風にはみえなかったですけど。あとガ島さんが「ブログは終わった」と語ったときにそれに追従する動きは皆無だったように思えるのですけどね。あ、でも「次はWikiだ!」とか言った連中はいたかもしれない。いたかも知れないけど言ってた人はもともとWikiの普及に尽力してた人たちだから彼らはタイコモチとかじゃないしな。やっぱり全然当てはまらないのじゃないかと思うのですけど。
あとover40さんの記事の最後の一行
以上、「誤読も権利だ」(©内田樹)ということで、自己流内田道でした。
の「誤読」については内田先生は確か割と最近の記事で書いてましたね。「どれだけ面白く誤読できるかどうか、というところに価値があるのだ」とかなんとか。内田先生のブログの検索窓に「誤読」を入れてみたのですけど残念ながら記事は見つかりませんでしたが。
「誤読」は確かに面白いと思います。私の大学での最初の恩師は誰かの言葉の引用だったと思うのですけど「天才は誤読から始まる」っていってました。「九鬼周造はサルトルの教師だったわけだが」とか恐ろしい(!)話を平然とするし、言われた方も虚をつかれてツッコミそこなう、みたいな感じでした。ま、この例はただの事実誤認ですけどね。
でもやっぱり引っかかる。「どれだけ面白く誤読できるかどうか、というところに価値があるのだ」というのは正しいことのように見えるけど、内田先生の「誤読」は別に面白くもなんともないというか、意外性がないというか、通俗的で普通のイワズモ(ry
うーん、どうなんでしょうね(←虚空になげかけた疑問)。