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内田式論法ネタの後始末(1)

(→関連記事
先々週末あたりからの著名ブロガー内田樹先生ネタについて色々後始末しておきますね。簡単な流れはこんな感じです。

内田樹先生が「哀愁のポスト・フェミニズム」という記事を書く

私が「内田樹センセはもう終わった」という記事を書く。内田式論法の特徴は

★特に内容はない(どんな場合にでも言える=何も言ってない)
★具体的な議論や検証が不可能

であるように見えるけど、なんでファンはこういうのがサイコーだというのだろう?と問いかけてみた。

hirokira1氏とover40氏からTB。「『何も語っていないように見える』論理展開こそが『内容』そのものであって、具体的な事実検証などは枝葉末節に過ぎない」とか「内田先生の言説そのものに深く納得するというよりは、内田先生の思考の流れを自分の興味領域に当てはめると面白い考え方が導き出されることがよくある」というようなお答えをいただく。

私が「内田式論法」という記事を書く。「論理展開」が凄いといっても「権威性を笠に着るだけの言動と、その本質とを混同するな」=「タイコモチって嫌だよね」という論理展開なんて「(H)非常に(A)アリキタリで(T)通俗的で(I)イワズモガナ(以下HATI)」じゃないですか?どこが面白いのですか?と聞き返す。

over40氏:HATIだったのか!がーん。
hirokira1氏:HATIというかHATなのが良いのだからIとかいうな。

26日月曜日に実は「コメント受付」にもリアクションをいただいていたことに気づく(←!)

あああ...(涙)。ほんと、マジですみません。コメントくださっていた方々。普段通りだとこんなミスはしないのですが、ちょっと色々事情がありまして、気づくのが遅れてしまいました。もうしわけありません。意図的に無視したわけではないのです。ごめんなさい。

というわけでこのシリーズ(?)の(2)以降でコメントをくださった方々にも言及していきますが、とりあえず今回は2回目のTBをくさだったお二方を中心に語ってみます。

で、いつも私の記事はダラダラと長いので、今回はなるべくコンパクトにいってみたいと思ってますが、思った通りにできるかどうか。

ええと、先に結果(?)を言ってしまうとですね、今回のお二方、特にover40氏の記事内容から内田式論法がファンを獲得する理由についての(密かに考えてた)私の仮説は証明とはいかないまでも、イイ感じに補強されたんじゃないかな、とか思ってます。あー、やっぱりねー、という感じというか。

簡単にいうと内田樹先生ファンは内田式論法で書かれた文章を「象徴詩」として読んでいるってことですよ(←エエーッ:AA略)。象徴詩の散文詩ね。内田式論法についての私の最初の記事に「象徴主義(←!)」と書いてあるアレです。その象徴主義の詩が象徴詩。ボードレールとかヴェルレーヌとか...と言いたいところですけど、内田式論法が似ているのは本家じゃなくて日本式象徴詩の方だと思いますけどね。気分象徴だの観念象徴だのいってたアレです。

うーんと、こんなこと書くとかなり唐突な感じがするかもしれませんけど、実は内田先生の文章についてはすでに「詩的」であるという評価を下した人はいるんですよ。銀色夏生さんとか。

この記事あたりが参考になりますかね。もっとも内田先生御自身は納得していないようですけど。


かつて『聖風化祭』に私が哲学的なややこしい文章を寄稿していた頃、「石沢玄」くんが慰め顔で告げてくれたように、「ウチダの場合は、ロジックのうちに詩的なものがあるから、それでいいんだよ」ということなのであろうか。文章はバリがさつだが、論理の骨格には一掬の詩魂がある。というようなことがこの世にあるのであろうか。なんだかあまりありそうもないような気がする。

「文章はバリがさつだが、論理の骨格には一掬の詩魂がある」...たぶん内田先生がもともと御専門にしているような仏文というか西欧の詩だと「アリエナイ」かもしれませんけど、日本の象徴詩なら「アリ」だと思います。

非論理的というかボケボケのロジックで文章を書いて、そこに(ここが大事!)なんとなく見慣れない&聞き慣れないコトバをイイ感じで配置すれば、象徴詩の出来上がり!なわけですよ。北原白秋、三木露風、etc...。彼らは当時大人気だったらしいですからね。特に女子に。このあたりも内田先生の状況と似ている感じはあります。

彼らは異国情緒のあるコトバや(架空の)ノスタルジーをかきたてるコトバを使用したわけですけど、内田先生の場合はそれを現代思想用語で行っているわけです(蛇足ながら補足すると「無駄に難解な漢語の使用」というのも両者に共通してます)。異化作用ってやつですかね。で、現代思想用語の使用が異化作用を及ぼさない相手には内田マジックは通じないので「ナニイッテンノ?」になってしまうのでしょうな。

あー、なんかこういう風に書くとバカにしているように見えるかもしれないですけど、そうでもないんですよ。たとえば「ボケボケのロジック」とかいうと批判しているように見えるかもしれないですけど、これがないと人気が出ないわけですよ。山村暮鳥なんて人がボケボケロジック部分をすっぱり全面削除して「見慣れない&聞き慣れないコトバ」だけをイイ感じに配置した詩をつくったんですけどウケなかったりしてましたから。

そんで、over40氏の記事のどういうところを見て「やっぱり!」となったのか説明しておきますね。


ガ島さんの「ブログは終わった」はフォロワーは少なかったけど話題にはなった、ですよね。「…は終わった」という”物言い”がどうして波風を立てるのか、波風を立てる力があるのか、その理屈が腑に落ちた感じでした。私にとって、ガ島さんが「ブログは終わった」と言い放った意図が内田式の流れで説明できるかどうかはあまり重要でないです。「ブログは終わった」という文章がなぜみんなの琴線(逆鱗?)をかき鳴らしたのかという絵解きがクリアになったことがうれしかったんです。

上のようにover40氏は書いてます。でもオカシイのですよ、コレは。内田先生は「哀愁のポスト・フェミニズム」で「フェミニズムの社会的役割は終わった」と御自身が書いた「意図」についてしか語っていないのですよ。その「意図」は要約すれば「タイコモチ的論客がこっそりと逃げ出すように仕向けることだった」って言ってます。表面上波風はむしろ立たないのですよ(「何となく的実感」がひろまると書いてます)。いや、実際は立つのかもしれないけど、そのことについては全く言及していません。フェミニストにもアンチフェミニストにも向けては語っていない、タイコモチに「終わったみたいだよ、さっさと逃げれば?」とそそのかしたことになっているわけですから。行動するのはタイコモチだけでしょう?しかも彼らは秘密裏に行動するわけで。

それなのになぜかover40氏は「どうして波風を立てるのか、波風を立てる力があるのか、その理屈が腑に落ちた感じでした」と言ってます。内田先生が(もちろん「行間」とやらも含めて)語ってもいないのに腑に落ちてる!しかも語ったもの(「終わった」とささやく意図)については「意図が内田式の流れで説明できるかどうかはあまり重要でない」と言ってる!トドメに「なぜみんなの琴線(逆鱗?)をかき鳴らしたのかという絵解きがクリアになったことがうれしかった」と言ってる!!琴線がかきならされるのはタイコモチだけなはずですよ!しかも彼らは皆に気づかれないうちに逃げるんですよ!内田先生が語っている内容を鬼無視してますよ!これらは全部内田先生のロジックと関係なくover40さんが考えたことですよ!あとover40氏の中でしか全然「絵解きがクリア」になってませんよ!(ためしに「なぜ」の部分を省略しないで言語化してみてください。たぶん出来ないか、あるいは出来ても内田先生の記事と直接関係ないものになるはずです)

もうこれは「オレさあ、カボチャをみるとトイレに行きたくなるんだよね」みたいな特殊で個人的な連想ですよ!内田先生の記事がきっかけにはなってるんでしょうけど、直接の関係はないみたいな感じといえば良いのか。

日本の象徴詩が消費されるときもたぶんこんな感じだったんだと思います。書いてあることやロジックと直接関係ないことを読み手各人が勝手に銘々連想というか空想してアレコレみたいな感じで。(内田先生が必ずしもそうだとは断定しませんけど)象徴詩人を名乗ってた連中は自分たちがカラッポなものを書いている自覚はたぶんあったと思います。で、カラッポであることがある種の読者にとって価値であることを知ってたのでしょう。

ところで気になったのでついでに言及しますけどover40氏が「こういうのを『テクストの断片化』っていうんですかね」と書いてる「テクストの断片化」って何ですかね。ググってみるとここがひっかかってきたのでコレでしょうか?


”書くこと”についても同じことがいえる。ジョージ・ランドウはハイパーテクストに対する読者の(”読むこと”の)介入を、テクストの断片化(レクシ)という特性の中に捕らえ、その中で作家性を保持することの困難さに注目している。」リンクの張り合わせの結束点に書く言葉や、相手に反応して書くチャットやメールの言葉は、断片的、記号的であり、近代的知性の価値観では、発展途上の、未成熟な主体の言葉と考えられる。また、電子メディアのインタフェースやインタラクションの稚拙さも「身体の忘却」や「分断化された世界」として指摘する。だが、著者はこうした電子メディア上での主体の未成熟や一貫性のなさを、むしろ、肯定的にとらえようとしている。

ええと、「リンクの張り合わせの」以降がブロガーの文章でその前は引用です。「閉じつつ開かれる世界」という本からの。「断片化(レクシ)」って書いてますね。レクシってのは lexi?何語?よくわかりませんけど。しかもこの引用先の定義で「テクストの断片化」を考えると、「こういうの」が何をさすのかわからなくなりますね。私はあの文章が内田先生という主体を形成する一部だとは理解して言及しているわけだし。

また長々ダラダラになってきたので、ここらで簡単にまとめますか。・・・と思ったけどhirokira1氏に言及していなかった!のでここで大急ぎで書いておきます。


しかし、それらのことは本当に「イワズモガナ」のことなのだろうか?とてもそうとは思えない。(略)こっちにしてみても、そんな「非常にアリキタリで通俗的」な構図には飽き飽きしているのだけれど、それが次から次へと押し寄せるのだからどうにもならない。私たちは、まさしくそのような「アリキタリ」の現実に生きている。にもかかわらず、そのような「アリキタリ」の現実に対して、「アリキタリ」の言説を持ち出すと、「イワズモガナ」とか「そんなこと今更もったいぶって語られてもなあ...」と言われてしまう。全くもって、不思議な話ではある。

「『アリキタリ』の現実」に対して「『アリキタリ』の言説」を持ち出すのはどうぞ御勝手に...と私は思ってます。日常会話でよくみかける無内容なメッセージの応酬によるコミュニケーションですからね。人間関係円滑化のためには必要だと思います。「残暑も終わって寒くなってきましたなあ」「そうですなあ」というようなヌケガラ感想は無内容だけど無意味なものではないですからね。

ま、わざわざ現代思想の専門家が日常会話でもない場で語らなくても...とは思いますけど、それは一々咎め立てするようなことではないでしょう。

どこが凄いのか?と尋ねて「論理展開だ」というような答えだったので「面白くない」「HATI だ」と書いたまでです。そして、もうちょっと付け加えると「HATI だ」というよりは「HATIT だ」となります。「非常にアリキタリで通俗的でイワズモガナで(おまけに言及している対象とは関係が薄い)(T)トンチンカンな内容だ」ってことです。「フェミニズム盛衰史」のような「『アリキタリ』ではない現実」に対してHATI な「『アリキタリ』の言説」を持ち出してきて、何かを説明できたように振る舞っていることがトンチンカンだってことです。

hirokira1氏が例に出している「曲学阿世」を辞書でひくと「曲学をもって権力者や世俗におもねり人気を得ようとすること」とあります。「曲学」は「真理をまげた不正の学問」とあります。「曲学阿世の徒は学問の敵である」という「アリキタリの言説」を「曲学阿世の徒がはびこっている」ような「アリキタリの現実」(というより「アリキタリの現実認識」ですね)に対して持ち出すのは問題が無いように見えます。

でも「曲学阿世の徒は学問の敵である」は「何が曲学なのか」「誰が曲学阿世の徒なのか」について明らかにしなければ何の意味もない言説です。フェミニズムの本質とやらをねじ曲げた曲学阿世の徒って誰ですか?そこを明らかにしなければ何も言ったことにはならんでしょう。違いますか?「曲学阿世の徒っていやだよねーっ☆」「ねーっ☆」といって合意した両者それぞれが想定している「曲学阿世の徒」が別人だってことも有り得ますよ。そんなことに何の意味があるんですか?

「フェミニズムの発展を阻害しているのは曲学阿世の徒だ!」という言説そのものの真偽は問えません。「フェミニズムの邪魔をしているのは邪魔者だ」と言っているのと同じです。それはまさしくその通り。何についてもこのように言うことはできるでしょう。でも何の意味もない言説です。トートロジーですよ。

何が曲学であるとか、誰が曲学阿世の徒だということに言及していなけれは、何の意味もないんですよ。わかりませんか。真偽は「何が曲学か」「誰が曲学者であるかどうか」ってところでしか問えないんですよ。それに言及しない内田先生の言説は単なるHATI です。HATIT です。


現代思想をやるなら、「イワズモガナ」なんて言わないで、現代の「アリキタリ」の現実と真っ向から向き合って、格闘して欲しいと思う。で、その「アリキタリ」の現実を少しでもよりよい方向へ動かして、「アリキタリ」でない現実を実現させるために汗を流して欲しいと思う。そうなれば、「アリキタリ」な言説は今度こそ本当に不要なものになるに違いない。

上で引用したhirokira1氏の言説もある意味HATI です。もし私がこういう内容を理解していないと思って(私に向けて)書いたのだとしたらHATIT でもあります。

イワズモガナでアリキタリとされていること、不可視化されて内面化されていること、を可視化して相対化するのが現代思想です。私はそう認識しているし、一応内田樹先生も著書ではそう書いていたと思います。「現実を少しでもよりよい方向へ動かして云々」の部分はよくわからない点(「よりよい方向」ってどこ?)もありますが、「アリキタリ」と認識されているものをそうではない、と明かすことが「アリキタリ」でない現実の実現、と言えないこともないと考えると、やっぱりこれも現代思想で普通にやってることです。フーコーでもデリダでもドゥルーズでもカルスタな人々でも皆これはやってると思います。というかコレしかやってないと思います。

でもその結果「曲学阿世」というような語が消えたりはしないでしょう。別にコレそのものは何も言ってませんから。何か劇的に人類の倫理観が変化すればわかりませんけどね。

あー・・・結局また爆裂に長くなってしまいました。まとまらないのでこのまま放置(←!)して次回に繋げます。それでは!

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