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「批評と批判」は違うのか?

気になる。「批評」と「批判」を並べて書く人が結構いるように見えるのですが、私の感覚からいうとちょっと変に見えます。で、そのあたりについてツラツラと書いてみますか。

例によってググってみますか・・・まずは「批評と批判」で。すると結果はこんな感じです(350件ほど)。あ〜、なんか色んな人がもう「批評と批判」の違いについて書いてるじゃんか。あ〜もうこのネタで書く気なくした〜ぶーぶー。

とは思いつつ、一応逆の組み合わせもやってみました。「批判と批評」だとこんな感じになります(207件ほど)。

グーグル検索の結果画面だけザッと眺めていい加減に判断すると、どうやら「批判と批評(順不同)」に関しては次のようなことが言えそうであったりします。

混同して使っている人がいる

でも辞書で調べるとどっちも同じような意味らしい

どっちも同じような意味だが、こんな違いがある
辞書的意味:ものごとの価値を論じて判定すること
混同する人:悪口をいうこと。否定的に評価すること

混同している人はどっちについても「誹謗」の意味で語っているようだ

って感じかなあ。

あとは批評と共起しやすい語というと「感想」とか「評論」とかかな。評論は「批評家と評論家」という形で批評と混同というか、同じような意味の語として使われることが多そうな希ガス。

なんつーか、昭和も遠くなりにけり、と思う。小林秀雄とかが一生懸命「評論家」と「批評家」、「評論」と「批評」は違うってことを書いていたのにね。何にも継承されていないのだなあ、とか思ったり思わなかったり。これ系(?)の最後の人っぽい白州(白洲?)正子さんも亡くなってからもう何年にもなるね。

うーんと、でもやっぱり「批評家」って悪口言う人って感じもあるよなあ、とは思わなくない。物事の善し悪しを判断される場合、「悪し」となるケースの方が多そうだし。あと(判断される側の)人によっては「批評家」っていうのは自分の身を絶対にそっち側(判断される側)に置かないというアンフェアな立場で勝手なことを言う連中に見えるだろうし。事実そういう例も多いしね。

あー、でも小林秀雄って別に批評する対象に対して否定的なこととか書いてなかったような気がするなあ。見当違いではあったかもしれないけど。あと結構意図的な嘘とか使ったりもしてたけど。

ランボーについてとかね。古本屋で偶然手にしたランボー詩集を読んで衝撃を受けたとかさ。当時あんだけはやってて知らないわけないだろうに。仏文科在籍だったんだし。

あとあれだ、「イリュミナシオン」は「地獄の季節」の前に書かれているはずだ!そんなこともわからんようなヤツはアホだ!とか散々書いてたけど、後に書かれていたことがキッチリ判明しているわけで。というか普通に内容読んだってそう思うだろうにねえ。バカねえ、とは思う。

あとはねー、色々あるけどモーツァルトの音楽は「疾走する悲しみ」だとかね。まさしく印象批評というか、無教養批評というか、まあアレなんだけど、それなりに面白いから別にいいんじゃね?とか私は思ったりもする。

「批評とは何か?」というのにはまあ色々意見はあるんだろうけど、その一つの見解としては「新しい読みの可能性の提示」ってのがあるのではないかと。

だからこのタイプの批評というのは本当は誰にも顧みられないようなツマラナイモノに対して行うのが吉なんだと思ったりもする。あるいはものすごく読みが固定されているものとか。

小樽文学館あたりにおられるあの方とかはその傾向が強いような。「小説神髄」を面白く読めるように再評価したりとかしてたし。まあツマラナイモノを対象とした場合は、もともとファンとかもあまりいないので問題は起きないようなんですけど、「読みが固定」されているタイプはヤバいらしい。

小林多喜二を扱ったときとかは色々あったらしいですしね。変な団体が乗り込んで来たりとか。

あ〜、あの方の読みとは直接関係しないと断った上で語っちゃうのですけど「プロレタリア文学」ってアレですよね、私なんかが読むとスゲーオカシイというか純粋にギャグとして読めるのですけど、まあ、こういうこと言うと怒られるんだよなあ。

「蟹工船」とかもさ。なんか多喜二の意図ってのがどのへんにあるのかは全然私は知らないのですけど、なんかねー、汚らしさの描写とか残酷描写とかってやっぱりやりすぎると変な可笑しさが出てくるわけで。吹いてしまうんですよね、私なんかは。エログロナンセンスってのが大正期と昭和の初めくらいに流行ったわけですが(←欧州とかでも同時期に同傾向がありますね)、なんかやっぱりその流れも汲んでいるんじゃないかと思っちゃう。描写の手法とか色々な面で。

でも「公権力に撲殺された殉教者多喜二」としてしか彼の作品を読みたくない人に対しては上で書いたような読みを提示する行為はそうした読みに対する批判(=ダメ出し)と受け取られかねないからなあ。そういう意味では新しい読みの提示としての批評さえ、誰かが望む(そしてそれだけが正しいと信じたい)読みへの否定的評価を行う行為とされちゃうんだなあ。

と、考えるとやっぱり批評でも批判でもなんでも自由にしとかないとヤバくね?と思う。読みが固定されることの方が作品にとっては「死」なんじゃないかなあ、とか考える。新しい読みの可能性がすべて出尽くしたときにやっぱり作品って死ぬんじゃないかな。

あー、とかなんとかボーっと考えてみたけどまとまらないので別の機会にでも書き直してみよう。

そんな感じ。


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