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ブログと対話

kamoなんか日々殺伐としてますな。

ちなみに誰がみてもわかると思いますが左の写真はカモです。京ぽんで撮りました。光はあり過ぎの状況でしたがボケボケになってますなあ。そういえば京セラはデジタルカメラ事業から撤退だとか。

で、全く写真とは関係無い話をトートツに始めるわけですけど、私が子どもの頃から口癖にしているのは「非論理的だ!」ってヤツです。バルカン人みたいですが。

そんで、幼少の頃からメチャギレして他人に襲いかかる場合(←!)の主要因はコレでした。今でも耐性があまりないです。さすがにこの年齢で他人に白目をムイてヨダレを垂らしつつ古代バルバル語で叫びながら飛びかかる(←!!)と警察沙汰になりますから自重はしてますけど。

そんなわけでこの御時世ですからやたらと目にするわけですよ。「非論理的」な言説を。で、あまりに精神衛生上よくないので今まで巡回していたブログのいくつかを巡回先から外そうと思ってます。


演説者には対話者がいないので、その独演は独断的なものとなりやすい。たとえば、言語の一次元的な層---自分に最も近づきやすい相---を、その実際の真の姿だととりかねない。

ええと、今手元にあった邦題「詩学から言語学へ」ローマン・ヤコブソン(国文社)の序からの引用なんですけどね。ブログは対話的なメディアかと思いきや、独演会っぽいなあ・・・などと私はここのところ思ったりしてます。もちろん私が書いているココを含めてですけど。

あとあれだなMidnight Press 2005 Spring No.27で松岡祥男さんのエッセイに


その中(=連合赤軍事件のころの高見順賞授賞記念講演)で吉本は危機的な状況になれば、詩人たちは煩や雑を厭い、自分のなかに閉じこもり、自己純化・純粋芸術の方向へ向かうだろう。それが決まったパターンであると語っている。

とある。吉本=吉本隆明なわけだが。語りたくないことを語りたくないから逃げる、というわけだね。ただコトはそう単純でもないわけで。

第一次湾岸戦争の頃、確か柄谷行人さんが呼びかけ人になって文学者が声明を出すような動きがあったんですよ。で、柄谷さんは(少なくとも私の理解では)「戦争が起きたからといって反戦運動だなんだと騒ぐことが結局戦争について特定の仕方で言及する以外の語る行為を制限することになってしまい、それこそが戦争協力となるからチューイせよ!」ってことをおっしゃっていたと思うのですよ。

でも戦争について語ること=反戦!なヒトたちがそういう問題意識は全く共有しないでベトナム反戦運動の焼き直しみたいなことしてやがったなあ・・・とか思い出します。戦地ではこーんな大変なことになっているのにノホホンと恋愛について語るとは不謹慎な!みたいな感じで煽ってたな。

それって結局「オクニのために兵隊さんたちが(ry」とか言ってた戦時中のアレと一緒ですがな。彼らに自覚は無いようだったけど。更に言うと「戦地で戦っている兵隊」はその発話がなされる場面には存在し得ないわけで、それを語る人間は絶対に当事者たり得ないのに彼らを勝手に代理=表象してるわけで。権力装置として他者抑圧に利用してただけなんですよね。そんでそこには対話は成立しない。

なんか話が面倒な方向に行きそうなのでアレですけど、なんつーのか「対話」って成立しないことが多いですよね、意図的にそうしているにせよ単なる能力の欠如でそれが起きているにせよ。

煩雑で嫌になる原因の大部分は間違った発言がなされることではなくて、それが訂正を受け入れないものであること、非論理的な独演会を延々聞かされるところにあるんじゃないかと。

しかもその状況は更にメタレベルでも非論理的であって、対話を拒否する人間に限って「対話が大事」とか「対話しなくては」とか言いやがる(←アレ?そうすると今それを語っている俺様は?)。たぶん水商売の女性に相づち打ちながら話を聞いてもらうようなヤツを対話だと思ってるんだろうな、そういう人は。それは接待なわけで対話じゃねーんだけどな、と思う。

うーんと、松岡氏はこのあと鮎川信夫の言葉とかも引用するわけだが、まあこのエッセイで語られている内容そのものは私の認識とは180度異なるのでアレなのだけど吉本や鮎川の発言ソースを調べるのが面倒なのでココから引用しておきます(笑)。

ちなみに鮎川の発言というのはこんな感じ。


その時言おうと思って黙ってしまうことはあるし、言って間違うかもしれないけど、言うべきことを言わないで済んだ後の後悔は絶対に償いようがない。けれど言って間違った場合には償えるはずなんだ、人間の行為はそういうものだ

そう。でもこれは間違って良いと言っているわけじゃないんだよね。問題は「償える」ってところで。っつーか「間違った場合」というのが認識できて、それに対する行為としての「償い」があるってことですよ。

自分がした発言・意見が間違っていたら「ゴメンナサイ」しなさいってことで。そうじゃないと対話とかも成立しないしね。

っつーことは対話が成立するためには何か対話行為の継続にincentiveが与えられないとダメなんだろうな、と思う。そうじゃないと間違った方が「間違いを認めない」となって途切れて終わってしまう。あるいは話をそらして誤摩化すとか。

ゴルフとかテニスとかのジャッジはプレイヤー自身がやるらしいのだけど、アレなヒトたちはアレな行為をやるってよく聞きますしね。そういえば邦訳が出ているみたいですね『大統領のゴルフ』。ビル・クリントンはスコアを誤摩化すらしいけど(笑)。

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