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芥川賞ズバリ的中!

といっても私じゃないんですけど。「陸這記」さんの1月12日のこのエントリなんですけど、スゲエ。ついでに直木賞の方も翌日のエントリで直接じゃないけど当てたみたいなもんで、なんつーのか業界の人なんですねー、って感じかな。


デビュー十年目で、すでに数誌で文学新人賞の「審査員」をつとめている阿部和重が、いまだに「新人賞」の候補になるのは明らかにヘン。今回こそは受賞させる、という出来レースならともかく、今回も落とされたら、いったい何のためにノミネートしたのかということになる。

阿部和重さんが受賞しちゃったので「出来レースならともかく」というあたりが相当辛辣な感じに見えてしまいますけど、まあ、ねえ。過去に島田雅彦さんがずーっと嫌がらせされていた例もあるわけだし。このあたりを気になさったのか後日のエントリでフォロー(?)も入れておられますね。

阿部さんの受賞は、実力や人気からいって当然だとしても、なぜこのような「候補作」になってしまうのかは、本当に真面目に考えた方がいい。
「ヤラセ」を告発したわけじゃねーよ、ってことでしょう。あとこのエントリでもそのような話から始めてますね。
まず、賞の趣旨が本来はどうであれ、阿部さんと角田さんの受賞は文句なしに妥当なものだと思う。二十代でデビューして十年以上のキャリアがあり、現在三十代半ばという彼らをはじめ、その同世代の作家たちは日本の現代文学でもっとも豊かな層を形成している。
私もこの意見の冒頭一文には全面的に賛成です。っていうか大変お恥ずかしい話ですけどノミネートされた人たちのうち誰だかわかるのはこの二人阿部さんだけだったりします(笑?)。しかも作品を読んだことがあるのも阿部さんだけ。角田さんは昔ニュースステーションに出ていた・・・で、出演していたころに何か賞をとって久米宏が紹介していた・・・とかいうくらいでしか知らなかったりします(←追記:オイオイ!これは松本侑子じゃんか。勘違いにも程がある!)。

ま、急いでイイワケすると私は「小説」が専門じゃないんで・・・いや、もちろんマジメな研究者の中にはセイリョウインリュースイ(←どういう字書くのか知らん。知る気もない)とかまで読もう(←でもさすがに彼程のレベルだと何度挑んでも途中で挫折するそうな)と努力する人とかもいるわけですが。

そうそう、で、阿部和重。今自宅書庫(←というほどでも無いが)にもぐってみたら「アメリカの夜」(講談社1994)と「インディヴィジュアル・プロジェクション」(新潮社1997)を発見。「ABC戦争」も持っていたような気がするけど書庫には暖房器具が無いので長時間潜れず、探索を諦めました(←ダメすぎる!)。でも少なくともデビューあたりのものを二冊持っているってことは強い悪感情は持たなかったってことなんだろうな。平野啓一郎とかは「日蝕」(新潮社1998)一冊読んで血圧あがりきったし、楠見朋彦「零歳の詩人」(集英社2000 )とかもね、もうウンザリしてしまったので彼らなんかは「黙殺リスト」に入れて私的にはこの世界に存在しないモノとみなしています(←とか言ってここに書いてちゃ意味ないじゃん!)。

ま、別に私がどー思ってもそれと関係なく世界はまわっていくわけでアレなんですけど。でもねえ、阿部和重といえば蓮實重彦先生大絶賛という後ろ盾で鮮烈デビューしたはずなのに、なんつーのかパーッとはしませんでしたよね。というかいつまでたっても村上春樹や村上龍の後継者というか彼らに「ぷっ!あんたたちはもう必要とされてませんが?」とやれるような人が出て来てないように私には見えるのですけどどうなんでしょうね。え?ナニ?町田町蔵ですって?ケンカ売ってんのかテメエ!・・・失礼、微妙に取り乱しました。

んー、あと「陸這記」さんは「中間」がどうの・・・って書いてましたね。で、「中間」なんですけど、一時期「中間小説」というコトバが文壇(←!)界隈で盛んに使われたことがあったらしいです。「純文学」と「大衆文学」の中間という意味で。具体的には誰を指してたんだっけなあ・・・忘れた。そんでそういう文学史的な意味で用いるのではなく「中間小説」ってことを考えてみると村上春樹とか吉本ばななって「中間小説」的なものとして受容されているようなんですよ。え?どこでかって?それはですな、ヨーロッパですがな(←アメリカでもそうかもしれんけど知らん)。

どうもヨーロッパで彼らが大変売れるのはああいう感じの小説が存在しないせいらしいのです。たぶん「純文学」「大衆文学」という明確で固定された区分は身分差があってそれが教養差になるような社会でしか存在し得ないのだと思います。教養人と無教養人では小説を受容する仕方にも差があるのでしょう。

などと書いてみましたが「純文学」って具体的に何?「大衆文学」って具体的に何?っていうかそもそも小説って何?と言いたい今日この頃。

うーん、なんつーのでしょうね、小説もやはり物語の一種ではありますよね。で、物語というのは娯楽として受容されたりするわけなんですけど、どういう意味で娯楽なのか?っていうのはちょっと足をとめて考えてみる必要はあるんじゃないのかなとも思うわけで。

っつーのは「ガイドブック」として読むってことがあるんじゃないかと。近世の郭文学みたいなものは遊郭での身の処し方を予め学ぶためのガイドブックだったわけですよね。物語形式で情報を整理すると読み手が理解しやすいということがあるようです。何が通で野暮かというのを理論的に解説して記述したものを読むよりも実例集のような形で書かれてあった方がよくわかると。実体験でそのままなぞってみることができますからね。

で、そもそもの物語の始まりのころのものを見てもやっぱり説話文学とかいって世間で生きて行く上でどう振る舞うと良い結果になりどういうことをするとマズいのか・・・って道徳なんかをやっぱり教えるというか学ぶ道具に使っているわけですよ。箇条書きとかにするよりわかりやすいってことなんでしょう。

で、近代小説ってのはどうなのかっていうと近代人としての身の処し方を学ばせる道具だったりするわけですよね、書いている方にも読む方にもそういう意識はあったんじゃねーのかな、っと。

ただちょっと副作用としてそれ以外というかそれ以上というかの意味を持ってしまうものもあったと。そこになんだかわからんけど「自律的文学価値」みたいなのが発生しているものがあったと。漠然としてますけどね。漱石の小説とそれ以外の有象無象の「家庭小説」群との差異はその点で確かにあった・・・と以前は信じられていて、そういう区分を主たる背景にしつつなんか現実のモロモロとが相まってよくわからん「純文学」と「大衆文学」とかいう区分が生まれたんじゃねーのかなーとか思うわけです。

そんで、近年の文学研究の主流(←ホントか?)では「自律的文学価値」なんて存在しない!漱石もその他の「家庭小説」も同じナリ!ってみなされているわけです。


重要なことは、夏目漱石という小説家が、その出発点において、言葉で書かれたどのような作品が「文学」として認知されるかは、時代によって異なるのはもとより、地域ごとの文化的・社会的な歴史性によっても、まったく異なるものであることを見抜いていたことである。

しかも、どの作品が優れたものであるのかという評価も、実は、きわめて恣意的に、ある歴史的な偶発性の中で決定されていった。つまり、ある時代の、いわゆる「文学」と認知された言語表現だけでなく、他のあらゆる言説との相関的な力関係の中に置いてみて、初めてなぜその表現が文学であるのかが明確になるのである。


と、「学問の鉄人 大学教授ランキング」(宝島社1997)で当時絶好調だった小森陽一先生が述べられていたわけですけど、どうなんでしょうね。漱石がヨーロッパの「文学」と自分たちが親しんで来た漢文の「文学」との差異に気づいた話からこう述べているわけですけど、さて本当に「まったく異なるもの」なんですかねえ、と当時も思ってましたけど今は更にその思いを私は強くしてます。

むしろ「地域ごとの文化的・社会的な歴史性によって」全く異なるものであっても良いくらいなのに「文学」として妙な共通性がある・・・ってところの方が私には気になりますけどね。

うーん、無駄に長くなってきたのでマトメますか。

「小説」はたぶん近代人のあるべき内面/葛藤する内面・・・みたいなものを学ぶ教本としての「近代小説」的性質のものではもうとっくにないわけです。というかそれでは誰も読みたくないわけで。では現代人のあるべき内面/葛藤する内面・・・みたいなものを学ぶ教本としての「現代小説」なのか、といえばまあ供給する側はそういうものを書いているのでしょうね、と思う。

阿部和重の小説で先述した二冊はなんかそんな感じだったんじゃないのかな(←ちょっと無理があるか?)。というかそれを書こうとしてそのままそれが書けているというか。あと当時はやっていたサブカルネタを適当に混ぜ込んであったりして微妙にエンタメ系要素にも配慮して、って感じで。

ただケツの青いというか言うと「ぷっ!」とされることを書きますけど(ドキドキ・・・)「自律的文学価値」の痕跡がどこにもないのですけど、それはどうなん?

っていうかさー、流通する情報量が極端に少ないとか受け手がみんな貧弱なリテラシーのおバカちんしかいないのなら高度なリテラシーを駆使する作家様の手になる小説を頼りに生き方学びます・・・とかなるのかもしれないけどそんな需要は今の社会であるのかなあ?と思う。で、オカミが(小説家救済のために?)やっている愚民化政策ですけど愚民化が成功しすぎてもう小説とかのレベルを通り越しちゃってるし。ほとんど文盲みたいな人たちが生産されているわけであんまり意味ないですよね。

うーん、さっきから顔を赤らめながら書いている「自律的文学価値」ですけど、たとえば村上龍の小説のいくつかには見られる気がするんですよ。皮肉なことに彼は本当はただ単に現代風俗をそのまま描いたハヤリモノ読み捨て小説を書きたいのだと思う。ハリウッド映画が大好きだったりするしね。ただいつも狙ったものを外して(完全に箸にも棒にもかからんことも多々あるけど)その代わりに得体の知れないものを(おそらく本人の意図に反して)釣り上げていたりするわけです。そこのところが天然の才能みたいなものなのかなあ、と思う。このタトエでいうと村上春樹さんは釣れてるのにわざとバラして釣り上げないようにしている感じかなあ。あと適当な憶測でいうと島田雅彦さんは村上龍が意図せずに釣り上げている(←しかも本人はイラネーと思っている)もののうち一つでも自分でヒットできれば死んでもいいくらいに羨ましいと思っているんじゃないのかなあ・・・などと思ったり思わなかったり。

あーもう限りなく芥川賞の話からはずれて長くなっているので結論(?)だけ書きますか。

小説が読まれるためには「自律的文学価値」(笑)が含まれてないとダメなんじゃない?ってことで。っつーか現代人には内面なんて存在しないわけで、情報だけならわざわざ小説形式で受容する必要もないわけだし。年に二回律儀に芥川賞受賞作を買って読んでくれるオッサンだけを相手に細々と商売しててもヤバイんちゃうの?と思ったり思わなかったり(←それとも私が知らないだけで阿部和重とかその他今回ノミネートされた人々や近年の受賞者の小説は売れまくっているのだろうか?)。

で、気が向いたらこのネタの続き書くことにしてとりあえずこんなところで(←それにしても結論が自分でもなんだかわからんものが含まれていないから不満って文句なのはどうよ!)。

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